重要文化財四脚門と国宝千手観音菩薩坐像

          重要文化財四脚門[葛井寺]       国宝千手観音菩薩坐像[葛井寺]

 葛井寺のご本尊千手観音菩薩坐像は、わたしたちに通称「観音さん」として親しまれています。この仏像と葛井寺について、紹介したいと思います。

 葛井寺は、紫雲山三宝院剛琳寺と号し、剛琳寺ともいいます。古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳時代に建立されました。寺蔵の古絵図や『河内名所図会』からみると、東西に塔をもつ薬師寺式の伽藍配置をとっていたことが知られます。
 飛鳥時代から奈良時代にかけては、全国各地で有力な氏族が、仏教興隆を奉じて競って氏寺を造りました。葛井寺もその一つなのです。葛井氏は、6世紀に活躍した渡来系の王辰爾の甥の胆津を祖とし、『日本書紀』によれば、吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績で白猪氏の姓を賜りました。その後、葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建したと伝わります。
 また、藤井寺という地名は、のちに大和在住の藤井安基という人が葛井寺の荒廃を嘆き、その復興に尽力したことから生まれたといいます。
 室町時代は、奈良・興福寺の末寺として栄えましたが、明応2年(1493)、畠山家の内紛に端を発した兵火にあって、楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなりました。残った建物ものちに地震で倒壊しましたが、復興勧進で再興されました。
 近世は豊臣家・徳川家の庇護を受け、とくに豊臣秀頼が寄進した四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指定の重要文化財となっています。この門はもと南大門として建てられましたが、現在の西門の位置に移建されました。
 さて、ご本尊の千手観音菩薩坐像は、寺伝によれば、稽文会、稽首勲の作で、像高1.5メートルの半丈六の脱活乾漆造りであります。脱活乾漆造りとは、粘土で像の原形を造り、この上に麻布を張り漆で固め、漆に木屑を混ぜたもので、細かい造形を施す仏像の製作方法なのです。原形となった粘土は抜き取られるので軽い仏像が出来上がり、しかも細かい表現が可能なので、奈良時代には盛んに採用されました。ところが、金銅製の仏像に比べると湿気や乾燥にデリケートで、もちろん火災には弱く、現在まで残った仏像はわずかになってしまいました。
 葛井寺の千手観音像は、乾漆像の中でも保存状態も良好で、大阪府下唯一の天平仏として、昭和13年に国宝に指定されました。
 頭上には、十一面を頂き、文字どおり千本の手をあたかも光背のように形造っています。お顔の輪郭は豊満で、理知的な表情を写実的に表現しています。誇張のない体躯は、比例がよく整っていて堂々としており、お顔とよく調和しています。衣紋の隆起は高く、写実的な手法が一貫しており、天平時代の円熟しきった技巧手法がよく発揮された作品に仕上がっています。
 また、見落としがちですが、台座の蓮華の一部とその下の敷茄子も当初のものです。とくに敷茄子四方の優美な忍冬唐草文の浮彫模様は、天平美術意匠の真髄と讚えられるものです。
 本尊は、大阪府下で唯一の天平時代の作品というにとどまらず、日本彫刻史上、奈良の唐招提寺の乾漆立像と双璧と讚えられる乾漆像の傑作とされています。
 葛井寺は、平安時代後半には観音霊場として知られるようになり、江戸時代から西国三十三番観音霊場の第五番札所として賑わっています。
 毎月18日には厨子の扉が開かれ、本尊を拝観することができます。また、毎年8月9日の「千日まいり」にはたくさんの拝観者で夜遅くまで賑わいます。

教育広報『萌芽』第7号 平成5年8月号より