倭王済の墳墓と考える藤井寺市市野山(充恭陵)古墳 先月号に記した祖〓(そでい)について、少し解説を加えることにします。祖〓は父と祖先の霊廟、ついては先祖代々と訳しました。
 しかし、前田直典さんは、〓は彌を誤写したものだとの説を発表されています。前田さんは、祖〓という一般名詞ではなく、祖なる彌、つまり祖父の彌という固有名詞が本来だと主張します。彌は『梁書』に第二代の倭王として登場する人物で、『宋書』の第二代倭王の珍と同一人物だと考えられています。
 前田説によると、彌は『梁書』に記すごとく済の父であり、武の祖父に当たるので、武の上表文を祖彌とみることと整合するというのです。前田さんは、この主張をベースに『記紀』の天皇系譜との比較によって、讚は応神天皇だとする説に発展させます。天皇名と倭の五王の比定の問題は、後で触れることにします。
 ちょっと、寄り道をしてしまいましたが、上表文に戻りましょう。
 「王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(ちょうそう)して歳に愆(あやま)らず」
 中国の王の道に従い、王の居るところから遠くまで開発した。代々天子には律義に謁見してきました。という意味です。続けて、
 「臣下愚なりと雖も、忝(かたじけ)なくも先緒を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を驅率(くりつ)し、天極に歸崇し、、道百済を遙て、船舫(せんほう)を装治す」
 父を継いで、民を率いて、天子のいるところにうやうやしく帰崇することができました。百済の国から、はるかその先まで船を進めた。ただ、「百済」については、百は多い、済はほうぼうに渡る、ということで、いくつものルートを通じて船を進めた、と解すべきだという意見もあります。
 「而るに句驪(くり)無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲し、邊隷を掠抄(りゃくしょう)し、虔劉(けんりゅう)して巳まず。毎に稽滞(けいたい)を致し、以て良風を失い、路に進むと曰ふと雖も、或は通じ、或は不(しか)らず」
 句驪は高句麗のことです。高句麗は非道な国で、周辺の国々の占領を図り、略奪や殺戮行為をやめない。いつも占領地に滞留するので、その土地の良い風俗が失われ、道路の通行もままならない。
 「臣が亡考済、実に寇讎(こうしゅう)の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦(こうげん)百萬、義聲に感激し、方(まさ)に大挙せんと欲せしも、奄(にわ)かに父兄を喪い、垂成之功をして一簣(いっき)を獲ざらしむ。居して諒闇(りょうあん)にあり、兵甲を動かさず。是を以て偃息(えんそく)して未だ捷(か)たざりき」
 亡くなった父の済は、かたき(高句麗)が天子の道を塞いでしまったのを怒り、正義の声に感激するたくさんの強兵を率いて、いままさに進軍しようとしていた。ところが急に父と兄が亡くなって、喪に服さなければならなくなったので、出兵をとりやめた。それで、高句麗とは休戦状態で未だ勝利していない。と述べています。
 「今に至りて、甲を練り、兵を治め、父兄之志を申さんと欲す。義士・虎賁(こほん)、文武功を效(いた)し、白刃、前に交わるとも、亦顧みざる所なり。若し帝徳の覆載(ふさい)を以て、此の彊敵(きょうてき)を摧(くじ)き、克く方難を靖んぜば、前功を替へること無けん」
 今、甲を作り、兵を率いて父兄の志を継いで戦いに出ようと思っている。正義の勇者たちは、功績を立てようといさんでいる。敵と刃を交えれば、ふり返ることなく前進しようと思っている。もし、天子の徳に覆い包まれ、難敵を破り、平和を手にすることができたなら、父兄の功績を引き継いだことになる。(つづく)

〓はでい

写真/倭王済の墳墓と考える藤井寺市市野山(充恭陵)古墳

『広報ふじいでら』第405号 2003年2月号より