日本犬はどこから来たのか(No.58)

更新日:2013年12月18日

左・亀井遺跡出土の弥生犬右・復元された弥生犬

考えてみると、犬が自分の意思で北や東に勝手に移動することはないのです。犬はヒトに伴って移動するのです。
東京大学の人類学者埴原和郎さんは、弥生文化の成立時には、在来の縄紋人を上回るような大量の人々が渡来したと推定されています。その主張を聞いてみましょう。
まず、縄紋時代末期の日本列島内の人口を75000人、7世紀初めの人口を文献資料から約540万人と仮定し、その千年間の人口増加率を0.2パーセントで計算すると、じつに150万人の渡来者があったと結論されたのです。人口増加率を0.4パーセントと最大限の高率に見積ったとしても、94000人という数字が得られるのです。
発表されたこの数字は、これまでの研究者が漠然といだいていた日本人の生成イメージを大きく揺るがせる衝撃を与えたのです。埴原説によれば、まさに、弥生時代は渡来人によって日本列島が席巻された時代だったのです。
その渡来人は稲作文化をもたらしたのですが、彼らに伴って犬も上陸したのです。ところが、その犬は縄紋犬と違って猟犬ではなかったのです。弥生時代の遺跡の調査で見つかる犬の骨は、バラバラになったものが多いのです。縄紋犬は猟犬あるいは番犬として飼育されてきたのですが、弥生時代に渡来した犬は、食用の家畜として飼われていた可能性が強いのです。
食用の家畜としては、犬のほかに豚も持ち込まれたのですが、食用家畜を飼育する文化は、その後日本には根づかなかったようです。
渡来人と共にやって来た北方系の犬は、在来の南方系の縄紋犬と交配した痕跡が日本犬(柴犬、紀州犬、秋田犬、甲斐犬、四国犬)の遺伝子に記憶されているのです。北海道と南九州および琉球列島には、渡来人が行かなかったか、あるいは極めて少なかったので、在来の縄紋犬の血統がほぼ純粋に保たれたと考えられるのです。それが北海道犬であり、琉球犬なのです。
いま、わたしたちのコンパニオンとなっている日本犬は、日本人の生成の秘密を解き明かす情報も秘めているのです。
ついでですが、日本に愛玩犬が登場するのは、『日本書紀』によれば、天武朝(7世紀後半)です。新羅から愛玩犬がもたらされたことが記録されているのです。おそらく、この犬の犬種は、のちの記録から推して「ちん」だと考えられます。

写真:左・亀井遺跡出土の弥生犬[大阪府文化財センター提供]
右・復元された弥生犬[大阪府立弥生文化博物館提供]

『広報ふじいでら』第308号 1995年1月号より

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