銅鐸は何に使われたのか(No.67)

更新日:2013年12月18日

伝香川銅鐸に描かれた狩猟の図

「銅鐸はお寺の鐘のように突いたのでしょうか。それとも、鈴のように鳴らしたものでしょうか。それにどんなふうに使ったのですか」
佐賀県吉野ヶ里遺跡の発掘調査のニュースから、文化財に興味をもつようになったという女性からの質問です。
ご質問の銅鐸は、吉野ヶ里遺跡と同じ弥生時代に近畿地方を中心に作られた青銅(銅にスズを加えた合金)製の祭りの道具です。
銅鐸の起源については、中国で作られ始め、朝鮮半島に伝えられた銅の鈴であろうといわれています。朝鮮半島の銅鈴は、多鈕細紋鏡(たちゅうさいもんきょう)という特殊な凹面鏡や銅剣(どうけん)とともにお墓に入れられていることが多いのです。これらの特殊な品物をもった人物は、おそらく神の声を聞く呪術師(じゅじゅつし)であっただろうと考えられています。
日本に伝わった銅鈴は、大きくなり、紋様を鋳出すなどのアレンジが施され、銅鐸に変身するのです。しかし、鈴としての機能はもっていて、内部に青銅や石で作った舌(ぜつ)と呼ぶ細長い棒をつり下げ、ちょうどお宮さんの賽銭箱の上の鈴を鳴らすように音を出したと思われます。その様子は、鳥取県稲吉遺跡から出土した土器に描かれたスケッチが大きなヒントを与えてくれます。
銅鐸は鈴のように音を出したものだというのは分かったのですが、問題は、どのような用途をもっていたのかという点です。銅鐸が実用的な代物ではないことは、一見して明らかです。京都大学の故小林行雄さんは、香川県出土と伝えられる銅鐸の両面に描かれた12カットの絵画から「弱肉強食の狩猟生活から、脱穀と高床倉庫に象徴される農耕生活へと移ったことを回想したもので、銅鐸は秋の収穫祭のときに祖先をたたえるために鳴らしたものだ」という解釈を示されました。
また、銅鐸に描かれた画題を集計した国立歴史民俗博物館の春成秀爾さんは、シカ、ヒト、サギがトップスリーにランクされることに注目しました。これらの画題がいずれも、水田稲作に深く結びついていることから、銅鐸は豊作を祈願する祭りに祖先の霊を招くために鳴らしたものだと結論しました。
しかし、弥生時代の後期になると銅鐸は大型化し、1メートルを超えるものまで作られるようになります。これらの大型化した銅鐸はもはや音を鳴らすものではなくなります。銅鐸は豊作祈願の祭器から政治権力のシンボル的な神器へと変化したのです。

図:伝香川銅鐸に描かれた狩猟の図(梅原末治1927年『銅鐸の研究』)

『広報ふじいでら』第317号 1995年10月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当、世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-9507

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。