卑弥呼の墓(No.71)

更新日:2013年12月18日

最初に造られた巨大古墳の箸墓古墳

「ついでにお聞きしたのですが」わたしの話が終わらないうちに、おじさんは次の質問を用意していました。「卑弥呼の墓は、箸墓古墳だという説はどうですか」なかなか質問が厳しくなってきました。
『魏志』倭人伝は、こう伝えています。卑弥呼の死後、「大いに冢(つか)を作る。径百余歩、殉葬(じゅんそう)するもの、奴婢(ぬひ)百余人」と。ただし、『魏志』には卑弥呼の亡くなった年号の記録はありません。のちに書かれた中国の歴史書『北史』によれば、「正始中、卑弥呼死す」とあり、おそらく、西暦250年前後に卑弥呼が亡くなったことが推測されます。
一方、箸墓古墳はどうでしょう。
箸墓古墳は、奈良県桜井市にある前方後円墳です。墳丘の長さは276メートルもあり、出土した特殊壷・器台形埴輪から最古の前方後円墳と目されています。
大和にある最古の前方後円墳で、しかも後円部の径が卑弥呼の墓の径百歩に近く、さらに「昼は人が作り、夜は神が作る」という伝説をからめると何だか箸墓古墳が卑弥呼の墓のようにも思えてくるのです。
ただ、問題なのは、箸墓古墳の造られた年代なのです。現在のところ確定的な情報はつかめていないのですが、古墳時代の土器の比較からすると、3世紀後半になりそうです。つまり、卑弥呼の死から30年前後経ってから箸墓古墳が造られたという結果になるのです。
箸墓古墳の築造をきっかけとして、前方後円墳は大和を中心として各地で盛んに造られるようになります。各地の王が共通の墓の形として前方後円墳を採用した背景には、中央と地方が一応安定した政治関係におさまった証と考えられるのです。
卑弥呼の死後『魏志』倭人伝では、「男王立てるも国中服さず」と記しています。卑弥呼という絶大なカリスマ性をもった女性が邪馬台国の政治的安定を支えていたのです。彼女の死後に邪馬台国の政情が不安定になったということは、邪馬台国の政治制度がまだ未成熟な段階にあったことを示していると解釈されます。
つまり、箸墓古墳を最初として、前方後円墳を政治的統合のシンボルとする政治制度は、卑弥呼の後を継いだ台与(とよ)ないし、その次代の王の時期に確立したと考えられるのです。
すると、箸墓古墳の主は台与、あるいは次代の王という結論になります。どうでしょう。考えてみてください。

写真:最初に造られた巨大古墳の箸墓古墳(桜井市教育委員会提供)

『広報ふじいでら』第321号 1996年2月号より

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