河内の前期古墳1(No.72)

更新日:2013年12月18日

玉手山・松岳山・古市古墳群の分布図

「箸墓古墳が造られてから、全国に前方後円墳が次々と誕生するとのことですが、そのころの藤井寺はどうだったのでしょうか」おじさんの質問が続きます。
藤井寺市内には大小の古墳が残されていますが、現在までの調査では、確実に4世紀後半、言葉を換えると津堂城山古墳に先立って造られた前期の前方後円墳は見つかっていません。ちょっと南河内に視野を広げてみましょう。
石川の両岸には、最奥の河内長野市から富田林市、太子町、羽曳野市、柏原市にかけて点々と前期古墳が確認されています。これらの古墳は墳丘の長さ概ね70メートル前後の前方後円墳や前方後方墳で、丘陵の上に造られている特徴があります。今のところ最も早く造られたと考えられる富田林市の真名井古墳や柏原市の玉手山9号墳でも、箸墓古墳が造られた時代までさかのぼることはないようです。
つまり、南河内地域は、北河内(枚方市)や北摂津(高槻市)に比べると、やや遅れて古墳造りを開始したようです。このことは、当時の大和にあった中心勢力と南河内の有力な勢力が、古墳が造られはじめてから少し時間をおいて、緊密な関係を取り結んだことを意味するのでしょう。
しかし、中央と取り結ばれた関係がきっかけとなったのか、もともと力を蓄えていたのかはっきりしませんが、いったん古墳を造り出した南河内は、大阪府地域で最も前期古墳が数多く築かれる地域になるのです。
玉手山遊園地のある南北に長い丘陵上には、累々と前方後円墳が築かれます。その数は14基にも達し、こんなにも前期古墳が集中するのは、大和を除けばあまり例のないことなのです。この玉手山古墳群は、おそらく4ないし5つの地域の首長が2代から4代にわたって古墳を築き続けた結果、できあがったと考えられます。
いくつかの地域の首長が玉手山丘陵を共同の墓地にして古墳造りを行ったのです。その背景には、これらの首長間に政治的な同盟関係が結ばれていたことを想像させます。この同盟は、大和の中央勢力にとって、頼もしい存在であると同時に危険な勢力と映ったに違いありません。
玉手山丘陵の北、大和川が石川に合流する直前に松岳山と呼ぶ独立丘陵があります。この丘陵上に墳丘長130メートルの前方後円墳、松岳山古墳が出現します。この古墳と玉手山古墳群、大和の巨大古墳、そして次に現れる古市古墳群との関係に注目してみたいと思うのです。

図:玉手山・松岳山・古市古墳群の分布図

『広報ふじいでら』第322号 1996年3月号より

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