河内の前期古墳2(No.73)

更新日:2013年12月18日

松岳山古墳の石棺と立石

松岳山古墳が築かれた4世紀の前半、大和では、盆地の北部で巨大な前方後円墳の築造が始まります。河内の石川谷では、玉手山丘陵を中心として、続々と小型の前方後円墳が造られていました。まだ、古市古墳群や堺の百舌鳥古墳群の姿はなかったのです。
松岳山古墳は、特異な内容が目立つ古墳だといわれます。では、一般的な前期古墳と比べて、どこが特異なのか調べてみることにしましょう。
まず、墳丘の構造です。墳丘の長さは130メートルで前期の前方後円墳としては、やや大きい程度です。
ただ、墳丘の表面を覆う葺石の状態は、斜面に礫(れき)を葺き上げるのではなく、板状の石を垂直に積み上げ、階段のように造っているのです。この方法は近畿ではあまり類例がなく、讃岐(香川県)の積石塚古墳にそっくりなのです。
後円部の頂上に造られた埋葬施設も注目されます。棺は6枚の板石を組み合わせた石棺で、のちに長持形石棺と呼ばれる棺形式の祖形と推定されるものです。この棺の周囲には、大量の板石を積み上げ、棺を保護する槨(かく)を築いています。さらに特異なのは、石棺の両短辺側に巨大な板石を立てていることです。この立石には、穴が開けられているのですが、どのような目的をもったものか、いまだ謎は解けていません。
松岳山古墳は1965(昭和40)年に京都大学の小林行雄さんによって発掘調査が実施されました。石棺の内部は、すでに乱掘を被っていたのですが、硬玉製の勾(まが)玉、碧玉製の管玉や丸玉、ガラス製の小玉、碧玉製の腕飾り形の宝器、鏡、銅製と鉄製の矢じり、鉄製の刀・剣・鍬(くわ)・鎌(かま)など多彩な副葬品が見つかりました。前方部に接するように造られた茶臼塚古墳からも、柏原市教育委員会の調査で鏡や腕飾り形の宝器が多数出土していて、松岳山古墳に本来納められた副葬品が並みのものでなかったことがしのばれます。
特異な構造と優れた副葬品に彩られて松岳山古墳に葬られた人物については、河内の最有力な首長(国立歴史民俗博物館の白石太一郎さんを代表とする)、大和勢力の有力な一員(神戸商船大学の北野耕平さんを代表とする)とする見解に分かれます。ただ、両方の見解とも松岳山古墳を造った勢力が古市古墳群の造営主体と深くかかわったとする点は一致しているのです。
つまり、松岳山古墳をどのように理解するかが古市古墳群の成立とその後の展開を解き明かす重要なキィーだと考えています。

写真:松岳山古墳の石棺と立石(柏原市立歴史資料館提供)

『広報ふじいでら』第323号 1996年4月号より

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