古市・百舌鳥古墳群の成立(No.74)

更新日:2013年12月18日

百舌鳥古墳群の全景

「津堂城山古墳が古市古墳群で最初に造られたと聞いているのですが、ほかの地域ではどんな状態だったのでしょうか」おじさんの質問が続きます。
おっしゃるとおり、津堂城山古墳は、いわば原野に近い状態だった羽曳野丘陵の北端の高台に突如造られたのです。4世紀末後半のことです。これと前後するように、堺の百舌鳥野と呼ばれた原野にも、城山古墳よりやや小さい前方後円墳が現れます。乳の岡古墳です。
一方、津堂城山古墳以前から大王墳と目される巨大な前方後円墳を造り続けていた奈良県の佐紀古墳群はどうだったでしょう。結論からいうと、ここでも巨大な前方後円墳造りは、休むことなく続けられていたのです。
つまり、巨大な前方後円墳は、初現期から一貫して奈良県内だけで造られてきたのですが、4世紀末後半を境として、大阪府の河内(古市古墳群)と和泉(百舌鳥古墳群)が加わり、同時に平行して造られるようになったのです。古墳時代を三区分すると、この時代を中期古墳時代と呼んでいます。
問題は、古墳時代中期になって出現した大阪の古市・百舌鳥古墳群を、どのような勢力が造ったのかということです。しかも、古墳の規模が、とてつもなく巨大であることから多くの議論を呼ぶことになったのです。
研究者の意見は大きく二つに分かれています。一つは、大阪平野に拠点をもつ豪族が、奈良県の豪族に替わって大和王権のトップの地位についたと解釈します。もう一つは、大和王権のトップは前期と変わらず、奈良県に本拠をおいた豪族で、いわば大王墳(巨大前方後円墳)造りだけを大阪で進めたとする意見です。
この二つの見解は、文献史学界、考古学界を二分していて、なかなか決着をみないのが現状です。理論的にも実証的にもそれぞれが弱点をもっているからです。
今後この問題が進展するためには、奈良盆地や大阪平野において集落跡や生産跡の調査が進み、王宮の所在や鉄器製造所などの様子を明らかにすることが期待されます。つまり、地道な考古学調査の成果を積み上げることが、急がば回れのたとえどおり、この問題に接近する早道になるのではないでしょうか。
文献史学から提起された河内王朝の実態は、いつの日に証明されるのでしょうか。はたまた、否定されるのでしょうか。興味津々。

写真:百舌鳥古墳群の全景(大阪府立近つ飛鳥博物館提供)

『広報ふじいでら』第324号 1996年5月号より

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