古代集落の追跡1(No.84)

更新日:2013年12月18日

北岡遺跡でみつかった掘立柱建物

「奈良時代の藤井寺はどんなまちでしたんやろうな。お寺も結構あって都と遜色のないほど栄えたんでっしゃろか」おじさんのイメージがふくらんできたようです。
市内に造られた古代寺院の数は、確実には5ヶ所を数えます。お隣の羽曳野市や柏原市も含め考えると、大和川と石川の合流点付近に古代寺院が集中していることが知られています。一郷あたり1つないし2つのお寺が造られたと仮定すると、古代寺院の集中は、イコール人口密度の高さを表わすことになります。
ただ、こうした想定を実証するためには、古代集落の実態を明らかにすることが必要になってきます。古代集落の復元は、発掘調査で見つかった建物や柵列、溝や井戸といった遺構のデータが基礎になります。これまでの発掘調査による資料から、古代集落を正確に復元するには、まだまだ不十分なのですが、それでもいくつかの重要なことが分かってきています。
その一つは、7世紀の初めを境にして、このあたりにたくさんの村が出現することです。しかもその村は掘立柱建物で構成されているという特徴があります。掘立柱建物というのは、地面に穴を掘り、その中に柱を建てて造る建物の総称です。掘立柱建物は、すでに弥生時代には知られていました。しかし、伝統的な竪穴住居に替わって、一般の住居にこの方式が採用されるのは、ずっと後のことなのです。掘立柱建物が一般住居に採用される時期は、地域によって差があります。早い所では5世紀に、遅い地方では平安時代になっても、なお伝統的な竪穴住居が残っていたことが分かっています。
この近辺では、急激に村の数が増える7世紀の初めがその交代期だったようです。つまり、新しく生まれた村は、掘立柱建物で構成されるという、目新しい景観をともなって現われたのです。
それから二番目としては、これらの新しく生まれた村むらは、村全体の規模はもちろん、構成する建物の形状や規模、村の成立と廃絶の時期、そして存続期間、こういった村の構成要素が極めて変化に富んでいることが分かったのです。
つまり、古代の村にはさまざまな性格をもった村が含まれていることが明らかになってきたのです。
たとえば、大規模で規格性の高い建物から成り立ち、存続期間の長い村は、お寺の経営にもあたったような有力な氏族の村であった可能性を考えなくてはならないでしょう。

写真:北岡遺跡でみつかった掘立柱建物

『広報ふじいでら』第334号 1997年3月号より

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