古代集落の追跡2(No.85)

更新日:2013年12月18日

北岡遺跡の8世紀中ごろの建物群復元図

ここで古代集落の実例を紹介しておきましょう。古代寺院葛井寺の周辺、具体的には藤井寺、岡、北岡にまたがる地域での発掘調査成果がある程度まとまってきました。
この地域内で掘立柱建物が見つかった地点は10ヶ所におよびます。これらを集計しますと、興味深いいくつかのことが分かってきたのです。
その一つは、大規模な建物を含む集落(以下A型集落と呼ぶ)は、比較的早く成立し、長期間継続するということ。逆に小規模な建物群からなる集落(以下B型集落と呼ぶ)は成立時期にバラエティーがあり、かつ集落の存続期間が短いという傾向をとらえることができたのです。
二つ目は、同時期に営まれた集落の数は、2~4ヶ所であり、あたかもA型集落にB型集落が付属するような関係にあることを知ることができました。
ここで問題がでてきました。葛井寺の東側には、葛井寺を経営した氏族が連綿と集落を営んでいたと推定されます。まだ発掘調査でその実態を確かめたわけではありませんが、おそらくA型の集落が存在するはずです。
A型の集落は、もう1ヶ所見つかっているのです。それは、最初市民総合会館のあたりで成立し、のちにジャスコの南側のあたりで発展する集落です。
つまり、葛井寺の近辺には2ヶ所に大型建物群で構成された集落が併存していたということなのです。
解釈の仕方はいくつかあります。その一つは両方とも有力な氏族の村で、南の村は葛井寺を経営したが、北の村は寺院を経営するにはいたらなかったとする解釈です。もう一つは南の村の理解は同じですが、北の村の解釈が異なります。
北の村ではいくつかの地点で細長い建物が見つかっています。これに注目するのです。細長い建物は一般の住居とは考えられません。マンションなどなかった一昔前の街の様子を思い返してみてください。細長い建物が思い浮かびましたか。学校の校舎、役所、鉄道の駅舎、つまり、細長い建物は公的機関の建物であった可能性が高いのです。
したがって後者の説は、二つのA型集落のうち北の集落は公的機関の建物群であろうと推測するのです。ただ、どういった性格の役所だったかまでは、資料不足でよく分かっていません。
さて、どちらの説に軍配が挙がるのか、これからの調査に期待がかかります。

図:北岡遺跡の8世紀中ごろの建物群復元図

『広報ふじいでら』第335号 1997年4月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当、世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-9507

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。