城山騒動(No.24)

更新日:2013年12月19日

天井石を加工した八幡神社の石碑(左:表、右:裏)

日ごろの冷静さを取り戻したBさんは、もう一度、大石のすき間を観察しました。大石の下は部屋のようになっていて、その壁は鉄平石のような、扁平な石を積み重ねて作られていました。部屋の中央には、かまぼこのような形をした大石があり、その表面は何やら奇怪な紋様が彫り込まれているようでした。そして壁石も中の大石もすべて赤く塗られており、一種異様な雰囲気を醸し出していました。
Bさんは、中の様子を頭にたたき込んで、つり上げかけた大石を降ろし、すき間を閉じるよう皆に指示しました。今日の事態を村役に報告し、今後の作業の進め方を決めてもらおうと考えたのでした。
そもそも城山のてっぺんで、大石の掘り上げにかかったのは、八幡神社の記念碑を作ろうと、村人が言い出したのがきっかけだったのです。八幡神社は、亨保5年(1720年)に津堂村の氏神として建設されましたが、明治42年(1909年)、近くの産土神社に合祀され、社が廃されたという経過があったのです。地元の津堂村としては、城山のふもとに村社があったという証を、記念碑という形で残そうと村役総会で一致したのです。
記念碑に使う石を、どこから調達しようという段になって、城山のてっぺんに一部顔を出している石を使ってはどうか、という提案がなされました。城山の石は大きさといい、柔らかそうな石質といい申し分がないし、何より八幡神社の記念碑としては、由緒正しいということで衆議一致したのです。
その日の晩、Bさんは城山での出来事の一部始終を、村役に報告しました。村役の1人は、それは昔の偉いお侍の墓だから、これ以上墓をあばくようなことは止めるべきだ、と主張しました。古老の1人は、村の歴史を知るためにも、中を徹底的に調べる必要がある、と力説しました。Bさんは記念碑に必要な大石を抜き取って、あとは埋めてしまうという、苦心の折衷案を披露しました。議論は白熱して深夜におよびました。結局、多数を占めた発掘派の意見を採用することになり、現場指揮は、これまでどおりBさんが執ることになりました。
家路への暗い夜道を歩きながら、Bさんは自分の気分が落ち込んでいくのがわかりました。大石を動かす段取りはすでに頭の中にあったものの、あの赤い部屋を掘ることや、まして奇妙な紋様のあるかまぼこ石の下を見ることは、好奇心よりも恐怖に近い感じがしていたのです。

写真:天井石を加工した八幡神社の石碑(左:表、右:裏)

『広報ふじいでら』第274号 1992年3月号より

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