国府遺跡の縄紋時代

更新日:2013年12月22日

(左)発掘された縄紋時代の人骨(大阪府教育委員会)(右)出土したケツ状耳飾り(京都大学総合博物館)

(左)発掘された縄紋時代の人骨(大阪府教育委員会)
(右)出土したケツ状耳飾り(京都大学総合博物館)
現在までに100体近くの人骨が確認された国府遺跡。では国府遺跡の縄紋時代を中心に紹介します。

大正6年(1917年)、京都帝国大学濱田耕作教授による旧石器の確認を目的とした発掘調査は、残念ながら旧石器の存在に否定的な見解を提出しました。しかしながらこの発掘調査は、当初予想もしなかった成果を挙げ、国府遺跡は学界のみならず社会的にも一躍脚光を浴びることとなりました。発掘調査によって3体の縄紋時代の人骨と縄紋土器や弥生土器が確認されたのです。
縄紋時代の人骨は、手足を折り曲げて埋葬された状態(屈葬)で確認され、当時の新聞は、世界的にも稀な例として国府遺跡人骨出土の報を伝えました。骨や木などは湿地帯や貝塚では確認される例が多いものの、酸性を帯びた日本の土壌では遺ることは珍しいことです。
当時の学界の日本人の起源に関する論争と関連し、その後相次いで多数の人類学者が国府遺跡を訪れ、次々と発掘調査が実施されました。その後の調査によってさらに70体を超える人骨が確認されるとともに、人骨頭部両側からケツ状耳飾りが出土しました。
国府遺跡出土人骨は、その後の人類学的調査によって、縄紋時代と弥生時代の人骨が含まれていることが明らかになりました。
こうした発掘調査の成果によって縄紋時代の埋葬方法や副葬品が明らかになり、当時の宗教観や習俗など様々な生活スタイルが明らかになりました。
平成7年(1995年)の発掘調査では、縄紋時代と考えられる人骨1体が確認され、イノシシやシカなどの獣骨や矢の先に着けた矢じり(石鏃)等の石器が見つかりました。こうした石鏃は、ほとんどがサヌカイト製ですが、チャート製や長野県和田峠から産出したと考えられる黒曜石で作られた石鏃が確認され、縄紋時代の交易範囲の広さを垣間見ることができました。
縄紋時代は、現在よりも気温が高く、現在の大阪平野まで海水が押し寄せてきており(縄紋海進)、国府遺跡は、海に向って張り出した丘陵の先端に位置していました。国府遺跡は、縄紋時代前期(約6000年前)の土器が出土しており、南河内において最も古い縄紋時代の遺跡であるとともに、人骨を遺す情報量の豊富な遺跡として今なお重要な意義をもった遺跡といえます。また、国府遺跡は、濱田耕作教授による発掘調査から報告書の刊行にいたる近代的かつ体系的な考古学の方法を実践した遺跡として考古学史を語るうえで輝かしい光を放った遺跡であるといえます。

教育広報『萌芽』第12号 平成8年2月号より

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