巨大古墳の出現(No.38)

更新日:2016年10月07日

奈良県東南部の古墳群の分布図

「河内王朝」この言葉を目にされ、あるいは耳にしたかたは、ことのほか多いことでしょう。皆さんは、「河内王朝」という響きから、どのような歴史をイメージされるでしょうか。詳しいことは別にしても、河内、ことに古市古墳群の所在地に暮らすわたしたちにとって、少なからず身近な響きが感じられる言葉であります。
「河内王朝」論は、戦後、大阪市立大学の名誉教授、直木孝次郎先生らによって提唱された、魅力ある仮説であります。5世紀に河内勢力が、大和勢力に替わって、政権中枢を掌握したとする、この仮説の大きな根拠は、4世紀までの巨大な前方後円墳がすべて大和(奈良県)に築かれたのに対し、5世紀になると、前代にまさる巨大古墳が突如河内(大阪府)に築かれる、という事実にあるのです。
そこでこれからの数回は、最近の考古学的成果を取り入れながら、大王墳と目される、巨大な前方後円墳が時間を追って、なぜ築造地を変えていくのかを探り、願わくば「河内王朝」の実態に迫ってみたいと思います。
まず、奈良盆地の東南部に目を転じてみましょう。山辺の道を散策されたことのあるかたは、ここに大きな前方後円墳が、いくつも築かれていることに、気がつかれたことでしょう。これらは北から西殿塚古墳(手白香皇女陵)を中心とした大和(おおやまと)古墳群、行燈(あんどん)山古墳(崇神陵)、渋谷向山古墳(景行陵)を中核とした柳本古墳群、箸墓古墳を中心とした箸中古墳群に分けて理解されています。
これらの古墳群の特徴をまとめてみますと、(1)ごく少数の例外を除くと、前期の前方後円墳、前方後方墳で古墳群が構成されていること。(2)前方後円墳の初現と考えられている箸墓古墳を初めとして、同時期の前方後円墳のなかで、全国最大規模の古墳を群中に含んでいることが挙げられます。
つまり、奈良盆地の東南部には、古墳の出現期から前期前半にかけての、大王墳を中心とした古墳群が営まれた、と考えることができそうです。また、この地には纏向遺跡という巨大な集落遺跡が見つかっていて、初期大和政権の政治・経済の中心が、この地域にあったことは、疑いのないところでしょう。
ところが、前期後半になると、奈良盆地東南部には巨大な前方後円墳は造られなくなります。替わって巨大古墳が築造されるようになるのは、奈良盆地の北辺、のちに平城宮が建設される地域なのです。大王墳の築造地が大きく北へ移動したのです。

図:奈良県東南部の古墳群の分布図

『広報ふじいでら』第288号 1993年5月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当)
ファックス番号:072-938-6881
〒583-0024
大阪府藤井寺市藤井寺3丁目1番20号
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-952-7854 (世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-7806
メールフォームでのお問い合せはこちら

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。