奈良県東南部から北部へ(No.39)

更新日:2013年12月19日

空から見た佐紀古墳群西群

奈良盆地の北辺、佐紀の地には、8基の大型前方後円墳を中心とした大古墳群が造られ、佐紀古墳群と呼ばれています。その巨大古墳の大半は、古市古墳群と同様、陵墓や陵墓参考地に治定されていて、内部に入ったり、もちろん発掘調査をすることなどは認められていません。したがって、その古墳が造られた年代や葬られた人物について、正確に知ることはなかなか難しいのです。
しかし、現在ではいろいろなデータを総合することで、古墳の造られた年代をかなり絞り込むことが可能になってきたのです。その最大の武器が円筒埴輪です。
佐紀古墳群で最初に造られた前方後円墳は五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵)と考えられます。墳丘の長さが275メートルもあり、まわりに濠がめぐります。この濠は、古墳が傾斜地に造られているために、数ヶ所に仕切り土手をもっています。このような構造は、前回紹介した柳本古墳群の行燈(あんどん)山古墳や渋谷向山古墳と共通するもので、この古墳の築造年代を知る手掛りとなるものです。同時に柳本古墳群における巨大古墳の築造企画が、佐紀古墳群でも踏襲されていると理解することができるでしょう。
つまり、五社神古墳の存在は、大和東南部の柳本古墳群から大和北部の佐紀古墳群への巨大古墳の移動が、時間的にも古墳の築造企画の面からも極めてスムーズに行われたことを証明していると思うのです。
五社神古墳の次に造られた巨大古墳は、宝来(ほうらい)山古墳(垂仁陵)と考えられます。この古墳の最大の特徴は、初めて同一水面を有する幅広い周濠を実現したことにあります。
宝来山古墳と前後して造られた巨大古墳に、佐紀陵(さきみささぎ)山古墳(日葉酢姫陵)があります。日葉酢(ひばす)姫陵とは、野見宿弥(のみのすくね)の埴輪創作伝承に登場することでよく知られています。江戸時代には大盗掘事件が発生し、特異な内部の構造や副葬品の一部が明らかになり、一躍有名になりました。これらは改めて紹介することにして、ここでは、この古墳の外形に注目してみたいと思います。
まず、この古墳の周濠の形です。これまでの前期前半の巨大古墳の周濠は、前方後円形の墳丘に沿って鍵穴のような形をしていたのですが、この古墳の周濠は盾形に造られているのです。盾形の周濠形態は、古墳時代の終わりごろ、剣菱形と呼ぶ特異な周濠形態が登場するまで巨大古墳に採用され続けたのです。

写真:空から見た佐紀古墳群西群(奈良市教育委員会提供)

『広報ふじいでら』第289号 1993年6月号より

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