津堂城山古墳の築造(No.40)

更新日:2016年10月07日

圧倒的な規模を誇る誉田御廟山古墳(応神陵)

佐紀陵山古墳の外形からは、盾形の周濠以外にも注意すべき点がいくつかあります。その一つは、前方部の両脇から堤に向けて張り出した施設です。今一つは、くびれ部と堤の中間の濠内に造られた島状の施設です。
これらの施設は、古墳が造られたときからのものか、あとからつけ加わったものか、永年疑問だったのですが、先年の宮内庁の発掘調査で築造時のものである可能性が高まりました。
こういった施設を前方後円墳につけ加えることは、佐紀陵山古墳で初めて実現された、新しい企画なのです。
佐紀陵山古墳が完成して間もなく、大阪平野を臨む台地に大きな異変が起こります。古市古墳群と百舌鳥古墳群の築造が開始されるのです。それまでの河内や和泉の地にも、前方後円墳は築かれていたのですが、概ね墳丘の長さは、100メートル前後の中小規模のものでした。ところが古市・百舌鳥古墳群では、墳丘長200メートルを超す大型前方後円墳が続々と造られるのです。
古市古墳群で最初に造られた大型前方後円墳は、津堂城山古墳であろうと推定しています。津堂城山古墳は、竪穴式石槨で覆われた長持形石棺を埋葬施設とし、くびれ部に造出しを備え、盾形で二重の濠と堤をめぐらせています。さらに前方部の両サイドの濠内に、島状の施設を配しています。
津堂城山古墳で実現された二重の濠と堤、さらに造出しを備えた前方後円墳のスタイルは、誉田御廟山古墳(応神陵)や大仙古墳(仁徳陵)といった、日本を代表する巨大な前方後円墳に引き継がれていきます。津堂城山古墳が古墳時代のエポックメイキング的な役割を果たしたことが分かります。
津堂城山古墳の二重の濠と堤が、どのような経過で企画されたのか、よく分かりませんが、濠内の島状の施設や造出しは、前段階の佐紀陵山古墳に謎を解く鍵が隠れているように思うのです。
つまり、佐紀陵山古墳の前方部西側の渡り土手を墳丘から切り離すと津堂城山古墳の島ができ上ります。また、逆に佐紀陵山古墳のくびれ部沖の島を墳丘に引き寄せて接続すると造出しが生まれます。
もちろん、確たる証拠のある話ではないのですが、もしこれが事実とすると、佐紀古墳群と古市古墳群を結ぶ見えない糸が見えてくるのですが。

写真:圧倒的な規模を誇る誉田御廟山古墳(応神陵)

『広報ふじいでら』第290号 1993年7月号より

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