古市古墳群の形成(No.41)

更新日:2013年12月19日

空から見た古市古墳群

古市古墳群で最初に造られた津堂城山古墳と佐紀古墳群の佐紀陵山古墳には、どうも密接な関係がありそうなのです。そして、前々回に触れた佐紀古墳群で最初に造られた五社神古墳が、柳本古墳群の渋谷向山古墳の形態を踏襲していることを考え合わせると、面白いことが見えてきそうです。
これらの巨大な前方後円墳は、古墳を造る場所を、まず、大和の東南部に求め、次いで大和の北部に移り、さらに山を越えて河内南部に移動しています。しかし、古墳の形態は、時間の推移にしたがってスムーズに変化していると理解できるのです。したがって、少なくとも古墳の設計者は同一系統に所属する技術者であったことは確かでしょう。さらにいえば、政治的記念碑である最高権力者のお墓の形態が、大きな変化なく造られ続けるということは、この間に大きな政治的な変動がなかったことを意味するように思います。
ではなぜ、巨大な前方後円墳が築造地を変えていくのかを考える順番になります。この問題は、津堂城山古墳築造後の古市古墳群の状況や、堺の百舌鳥古墳群の動向をざっと見渡したあと、とくと考えてみようと思うのです。
さて、古市古墳群において、津堂城山古墳に次いで造られる巨大前方後円墳は、仲津山古墳と推定されます。仲津山古墳は、近鉄土師の里駅のすぐ西側にあります。墳丘はうっそうとした森となり、まわりには深い濠(ほり)がめぐっています。墳丘の長さは、津堂城山古墳の約1.4倍に拡張され、290メートルもあり、全国で8番目にランクされる巨大古墳です。
仲津山古墳に続いて造られたのは、応神陵に治定されている誉田御廟山古墳です。この古墳の大きさはいまさら説明するまでもなく、墳丘の長さでは堺市の大仙古墳(仁徳陵)に次ぎ、体積では逆にこれを上回るといわれている日本一、二を競う巨大古墳です。
古市古墳群では、誉田御廟山古墳以降も市野山古墳(允恭陵)、軽里大塚古墳(白鳥陵)、岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)などの巨大古墳の築造が続きます。しかし、墳丘規模は縮小の傾向にあり、6世紀になると、120メートルクラスの野中ボケ山古墳(仁賢陵)や高屋城山古墳(安閑陵)が最も大きいものとなります。
堺市の百舌鳥古墳群は、津堂城山古墳の築造と相前後する時期に、墳丘長155メートルの前方後円墳乳の岡古墳が造られ、群形成が開始します。

写真:空から見た古市古墳群

『広報ふじいでら』第291号 1993年8月号より

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