百舌鳥古墳群の形成(No.42)

更新日:2013年12月19日

日本一墳丘の長い大仙古墳(仁徳陵)

堺の百舌鳥古墳群では、乳の岡古墳に次いで百舌鳥陵山古墳(履中陵)が築造されます。この古墳は、墳丘の長さが360メートルもあり、日本で3番目の規模を誇っています。百舌鳥陵山古墳の出現は、百舌鳥野の地に大王墳の進出を鮮やかに印象づけます。
百舌鳥陵山古墳の完成と前後して古市古墳群では、未曾有の大事業誉田御廟山古墳(応神陵)の築造が開始されます。この時期の百舌鳥古墳群では、イタスケ古墳(墳丘長146メートル)の築造が確認されますが、巨大な前方後円墳の築造は、一旦ペースダウンしたような印象があります。
ところが、誉田御廟山古墳が完成したころ、百舌鳥にこれをしのぐ巨大古墳の築造計画が実施に移されようとしていました。大仙古墳(仁徳陵)の築造です。大仙古墳は墳丘の長さが486メートルもあり、ずんぐりした誉田御廟山古墳に対して、前方部を引き伸ばして、墳丘の長さをより強調したプロポーションとなっています。
大仙古墳を大阪湾から見ると、その巨大な側面が目に飛び込んだはずです。古墳の築造者が、古墳の見せ方に、いかに大きな力点をおいていたかを考える素材だと思います。
さて、百舌鳥古墳群では、大仙古墳と前後して、土師ニサンザイ古墳(墳丘長290メートル)、百舌鳥御廟山古墳(墳丘長186メートル)、田出井山古墳(反正陵:墳丘長150メートル)といった巨大古墳が造られます。さらに、これらの巨大古墳の周辺にも、数多くの中小の古墳が造られ、百舌鳥古墳群の最盛期の様相を呈します。
ところが、百舌鳥古墳群では、これらが集中して築造された後、ぱったりと古墳の築造が途絶えます。百舌鳥古墳群と古市古墳群は、同じく5世紀を中心に形成された大型古墳群ですが、比較的安定して古墳を造り続けた古市古墳群に対し、短期間に集中して古墳が造られた、百舌鳥古墳群という異なる個性をみることができるのです。
百舌鳥と古市に展開された巨大古墳造りの競争は、何を意味するのでしょうか。大和政権を掌握した最高首長は、前代を上回る古墳を築くことを至上課題としていたように見受けられます。大仙古墳は、前方部を引き伸ばすことで、誉田御廟山古墳を上回る規模の古墳を実現しています。しかし、その形は伝統的な前方後円墳の基本形を逸脱しており、墳丘の体積は、逆に誉田御廟山古墳を下回るというデータがあります。巨大古墳造りという政治政策の限界を、無理やり前方部を延伸させた大仙古墳にみることができるのです。

写真:日本一墳丘の長い大仙古墳(仁徳陵)(堺市博物館提供)

『広報ふじいでら』第292号 1993年9月号より

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