ヤマト政権の古墳政策(No.46)

更新日:2013年12月19日

空から見た纏向遺跡と三輪山

奈良盆地の東南部に最初に造られた大王墳が奈良盆地の北部、次いで大阪平野に移動する事実は、どのような歴史的な背景のもとに起こったのかを考える順番になりました。
その前に、少しだけややこしい話になりますが、古墳とくに前方後円墳について考えておきたいと思います。
大王の古墳と目される巨大な前方後円墳も、よって立つクニの王の墓としての基本的な性格をもっているとの立場にたてば、大王墳が造られた場所は、ヤマト政権の所在地のすぐ近くということになります。河内王朝論もこのような解釈に基礎をおいています。
しかし、一般的な地域の王の古墳と在地の関係としては、まったく異論はないのですが、大王墳とこれを含む古墳群の理解には、別の解釈を用意する必要があるのではないかと思っています。たとえば、大和・柳本古墳群は4期に終焉を迎えますが、この古墳群を営んだ大王を含む王たちはその後どうなったのでしょう。先の解釈からすると、彼らは5期以降奈良県東南部の本拠地を棄てて移動していった、あるいはいかなる古墳も築きえないほど勢力が衰えたということになります。三輪山の祭りが連綿と続いていることを挙げるまでもなく、答えはいずれもノーであります。
巨大な前方後円墳を頂点とする古墳秩序は、古墳祭りを共通にすることが同じ祖先、同じ集団に属している証である、という考えに貫かれていたと思われるのです。実際にはすべての王が共通の祖先をもっているということはありえないことです。ありえないことを前提にした古墳祭りは、ことさら見せることに力点が注がれるようになったと思われるのです。
いま一つ、注意しておきたいことがあります。それは古墳築造には、想像を絶する労働力の投下と最重要資源であった鉄の埋納という重い経済的負担を伴ったことです。つまり、古墳を造るということは、ヤマト政権との密接な関係を誇示することで、王の地位を確立するという政治的な効果と大きな経済的負担の両面を合わせもった事業であったのです。
ヤマト政権の古墳政策は、このような古墳のもつ基本的な性格を巧みに使い分けながら、地方の支配と大王権の確立を目指したものだと理解できるのです。
大王墳の移動もまた、こうした古墳政策の重要な柱として立案され、そして実行に移されたと考えています。

写真:空から見た纏向遺跡と三輪山(桜井市教育委員会提供)

『広報ふじいでら』第296号 1994年1月号より

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