佐紀への移動の理由(No.47)

更新日:2013年12月19日

纏向遺跡から出土した各地の土器

では、第一段階の移動、すなわち奈良盆地東南部から奈良盆地北部への大王墳の移動の背景は、どのように考えられるでしょうか。
現在のところ、奈良盆地北部においては、弥生時代後期から古墳時代前期前半の集落や古墳分布を見るかぎり、有力な在地勢力の存在を認めることができません。つまり、この段階では、奈良盆地北部の大半は未開の原野であったと理解することができそうです。
奈良盆地東南部における集中的な古墳の築造は、ヤマト王権の所在地に急激な労働人口の流入をもたらせました。纏向(まきむく)遺跡から出土する日本各地の土器は、その事実の一端を証明しています。過酷な労働の強制は、人々の心と体に疲労を蓄積していきます。その労働組織の編成や管理機構がどのように準備されたかは、ほとんど想像の域を出ません。しかし、当時の人口(ある推計では、100万人程度とされる)や技術水準を考えると、想像を絶する人々が、古墳築造のために奈良盆地東南部に集まったことだろうと思われるのです。
このような多くの人々が、過酷な労働に従事すれば、ときには反乱を起こしたこともあったでしょう。人が棒と石を持てば、兵士になる時代です。古墳、特に大王墳のような巨大な前方後円墳の築造は、こうした危険がますます大きくなります。
当時の政権の中枢を担った人々は、大王墳の造営地を政権所在地から遠ざけることで、そうした危機を回避しようとしたのではないかと考えます。次には、その造営地をどこにするかの決定が急がれたのです。
結果からいうと、奈良盆地北部が選ばれたのです。それは、この地が先に述べたように複雑な利害関係がなく、大半が未開の原野であったことが最大の理由だったのでしょう。加えて、奈良盆地北部の佐紀の地は、山背国(現京都府)と河内(現大阪府)の国境に近接するという交通の利便性が考慮されたのではないでしょうか。
五社神古墳(神功皇后陵)をはじめとする佐紀古墳群の出現は、ヤマト政権の権威と奈良盆地の領有を内外に明らかにすることを意図したと推測しています。
奈良盆地北部の佐紀古墳群から大王墳が大阪平野に移動する第二段階は、古市古墳群における津堂城山古墳の築造が画期となります。これ以降9期にいたるまでは、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に大王墳が築かれることになるのです。

写真:纏向遺跡から出土した各地の土器(桜井市教育委員会提供)

『広報ふじいでら』第297号 1994年2月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当)
ファックス番号:072-938-6881
〒583-0024
大阪府藤井寺市藤井寺3丁目1番20号
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-952-7854 (世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-7806
メールフォームでのお問い合せはこちら

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。