中規模古墳の被葬者像(No.50)

更新日:2013年12月19日

空から見た古室山古墳(右)と野中宮山古墳(左)

では、玉手山古墳の丘陵に前方後円墳を築いた南河内の王の同盟は、前方後円墳を築かなくなった4世紀末葉を境に、消えてなくなってしまったのでしょうか。取って替わるように出現する古市古墳群を造った勢力によって征服されてしまったのでしょうか。
いろいろな可能性を考えることができると思いますが、ここでは、古市古墳群を構成した中規模以下の前方後円墳に注目してみることにします。
巨大な前方後円墳とそれ以下の規模の前方後円墳の違いが、大きさ以外にどのように現れるかを探っていくと、興味深いことに気づきました。まず、巨大な前方後円墳では、新しく造られるときには前代になかった要素が加えられ、逆に古い要素を棄てていく傾向が見られるのです。
たとえば、津堂城山古墳では、造出しや二重の周濠・周堤といった新企画を実現しています。言葉を換えると、巨大古墳は常に新しい装いを凝らして登場するということなのです。
これに対して、中規模以下の前方後円墳では、伝統的な形態を守っている例が目立つのです。中期の野中宮山古墳や古室山古墳の周濠は、墳丘に沿って前方後円形をしています。このような形は、前期の前方後円墳によくみられた形で、中期の巨大前方後円墳では、すでに盾形に変化しているのです。
つまり、同じ時代に造られた前方後円墳でも、巨大な前方後円墳とそれ以下の規模の前方後円墳では、見た目がかなり違うということなのです。
さらに中規模以下の前方後円墳には、南河内の前期前方後円墳との関係をうかがわせる要素がみられるのです。壷形埴輪や低いテラス状の造出しはその一例です。こうした事実がいくつも積み上がると、中規模以下の前方後円墳を造った人物像が浮かび上がる可能性が出てきます。
予測的にいうと、古市古墳群の中規模以下の前方後円墳には、玉手山古墳群をはじめとする南河内の王の後裔が埋葬されているのではないかと思っているのです。
また、古市古墳群の中規模前方後円墳は、時代が下るにしたがって、規模が小さくなり、数も減ってくることが最近の調査成果で明らかになってきました。こうした変遷からは、大王の権力が5世紀のうちにどんどん強くなり、反対に在地に勢力を誇った王たちの没落していく姿を読み取ることができるのかもしれないのです。

写真:空から見た古室山古墳(右)と野中宮山古墳(左)

『広報ふじいでら』第300号 1994年5月号より

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