なぜ河内が選ばれたのか(No.51)

更新日:2013年12月19日

大阪湾に面した百舌鳥古墳群

次に考えなければならないことは、大王墳の移動先になぜ大阪平野が選ばれたのかということになるでしょう。
その理由の第一は、大阪平野に勢力をもった王は、弥生時代から培われた経済力を蓄えていたこと。さらに玉手山古墳群の形成に象徴されるように、政治的な同盟関係を結成する動きがあったことが挙げられます。河内勢力のこうした対外的な政治力の増進は、ヤマト政権にとって脅威に感じられたことでしょう。したがってヤマト政権は、この政治同盟の解体と王の経済力をそぐことが、自身の政治的安定を確保するために必要なことだと考えたでしょう。
いま一つの理由としては、大阪湾は瀬戸内海の東の突き当たりにあります。湾に面した大阪平野に巨大な大王墳を築くことは、王権の所在とその強大さを誇示するうえで、極めて効果的な事業であると判断したことではないでしょうか。
つまり、大王墳の河内平野への進出は、この二つの政治的課題を満たすことをねらってヤマト政権によって決定されたと推測しています。なお、第一の理由についてもう少し説明を加えることにします。
すなわち、百舌鳥・古市古墳群が形成を開始するまでの大阪平野の古墳をみると、飛び抜けて大きい古墳が造られていなかったことはすでに説明したところです。言葉を換えると、大阪平野の王たちの力関係はほぼ同じくらいであったと考えられるのです。
ヤマト政権は、河内平野への進出に先立ってこの王たちの序列化を試みたのです。序列の最上位に選ばれた王には、前代にまさる前方後円墳の築造を許可する一方、序列下位の王には、古墳の大きさと墳形に厳しい規制を設けたのです。古市古墳群の古室山古墳や百舌鳥古墳群の乳の岡古墳は、こうした序列の最上位に選ばれた王の墳墓ではないかと考えています。
また、最上位に選ばれた王とは、婚姻を通じてその関係をより強いものにしたと推測されるのです。奈良大学の水野正好先生の巨大古墳は妃の出身地に造られるという指摘は、こうしたことの現れだと解釈することもできます。
さらに選ばれた王には、大王墳の築造にあたる膨大な経済的負担を要請したのです。古市古墳群における中規模前方後円墳の衰退現象は、巨大古墳の築造が河内の王の経済基盤に大きな打撃を与えた証拠だと考えています。

写真:大阪湾に面した百舌鳥古墳群(大阪府立近つ飛鳥博物館提供)

『広報ふじいでら』第301号 1994年6月号より

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