巨大古墳の終焉(No.52)

更新日:2013年12月19日

倭王武の墳墓と考える岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)

古市・百舌鳥古墳群内に取り込まれた河内の王の古墳は、その後衰退の一途をたどります。ある王は古市・百舌鳥古墳群の成立時に王としての権能をはく奪され、勝ち残った王もまた大王墳の築造という過度の経済的負担に耐えることができなかったのです。
4世紀末まで玉手山に前方後円墳を累々と築き、隆盛を誇った王の同盟は、5世紀の末にはその存在の痕跡を探すことさえ難しくなるのです。この時期は、大王墳の築造地が百舌鳥・古市から離脱する時期でもあるのです。
ヤマト政権の側からみれば、河内地域に勢力を誇った王たちの力をそぎ、河内平野を領有した証として大王墳を築いたことで、当初の政治目的は達成したことになったのでしょう。
古市・百舌鳥古墳群における最後の大王墳は、藤井寺4丁目にある岡ミサンザイ古墳と考えられます。岡ミサンザイ古墳は、堤から出土する円筒埴輪を参考にすると、5世紀末に築造されたと推定されます。その被葬者は倭王「武」すなわち雄略天皇であったと考えています。この問題はまた別の機会に論じることにしても、約100年間続いた古市・百舌鳥古墳群における大王墳の築造は、この岡ミサンザイ古墳をもって終了するのです。
その後の大王墳は、一旦、大和南部(橿原市の鳥屋ミサンザイ古墳)に回帰するのですが、突如、摂津北部(高槻市の今城塚古墳)に移動します。次いで古市・百舌鳥古墳群の中間地(羽曳野・松原市の河内大塚古墳)が選ばれ、再度大和南部(明日香村の平田梅山古墳・橿原市の見瀬丸山古墳)に回帰して、前方後円墳による大王墳の築造が終結するのです。
6世紀における大王墳の築造は、まさに大和・摂津・河内を回遊するように移動します。それは、領有地に自らの存在の証を記すことに巨大古墳の築造の意味を見い出した行為のようにも受け取れるのです。
約350年にわたって続いた前方後円墳の時代は、見瀬丸山古墳という奈良県最大の前方後円墳の築造で幕を閉じるのです。しかし、この時すでに、新しい政治的権威の象徴として、「寺院」が選ばれ、寺院の時代が始まろうとしていたのです。

写真:倭王武の墳墓と考える岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)

『広報ふじいでら』第302号 1994年7月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当)
ファックス番号:072-938-6881
〒583-0024
大阪府藤井寺市藤井寺3丁目1番20号
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-952-7854 (世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-7806
メールフォームでのお問い合せはこちら

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。