平田梅山古墳の発掘調査1(No.95)

更新日:2013年12月19日

奈良県平田梅山古墳の発掘調査の遠景

今月から「発掘見て歩き」と題したレポートをお届けします。
全国では毎年、1万件を超える発掘調査が行われています。その中には修羅の発見や藤ノ木古墳の調査のように、新聞やテレビを大いににぎわせたニュースから、マスコミに登場することなく終わったものまで含まれています。
そんな多種多様な発掘調査の情報から、これはといったものをご紹介しようと思います。
まず第1回は、平成9年11月に行われた奈良県明日香村平田梅山古墳の発掘調査の模様をお伝えします。この古墳は欽明天皇陵に治定されていますので、宮内庁書陵部が発掘調査を担当されました。
欽明天皇は、539年から31年間も長期在位した大王で、571年に亡くなられ、「檜隅坂合陵(ひのくまさかあいりょう)」に葬られたと記録されてます。現在は、この「檜隅坂合陵」を平田梅山古墳にあて、欽明天皇陵としているのです。
ところが、30年も前になりますが、同志社大学の森浩一さんが平田梅山古墳の北方800メートルにある見瀬丸山古墳こそ、真の欽明天皇陵ではないかと問題を提起されたのです。
見瀬丸山古墳は、墳丘長310メートル、奈良県最大の前方後円墳で、しかも後円部の横穴式石室は日本最大の規模を誇っています。さらに石室内の2基の石棺は、6世紀の後半と7世紀の初めの産物であることが最近、明らかになりました。加えて神戸女子大学の秋山日出雄さんがつき止められた見瀬丸山古墳西方の「山陵田」の存在は、この古墳が少なくとも平安時代までは陵墓として取り扱われていたことを証明したのです。
こういったことは、欽明天皇陵に皇后堅塩媛を改葬したという記録とも符合し、見瀬丸山古墳を真の欽明天皇陵とする森説が、がぜん有利になったのです。
一方、京都教育大学の和田萃さんは、「檜隅陵」の改修記録に注目されました。それは墳丘に砂礫を敷き、域外の土山に大きな柱を立てたとする内容で、これは江戸時代に石山と呼ばれた平田梅山古墳を指すものだとされたのです。また、この古墳の南側の別区から出土したと伝わる飛鳥の猿石の存在は、『今昔物語集』に登場する石の鬼形に一致し、平田梅山古墳=欽明天皇陵を傍証するとされました。
平田梅山古墳の発掘調査では、欽明陵をめぐる論争に決着をつけるような大きな成果が期待されていたのです。

写真:奈良県平田梅山古墳の発掘調査の遠景

『広報ふじいでら』第345号 1998年2月号より

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