「調」の字を刻む土器(No.97)

更新日:2017年07月08日

茨木市総持寺遺跡で出土した「調」と書かれた須恵器

年明けから、奈良県の黒塚古墳での三角縁神獣鏡の多量出土や、キトラ古墳の鮮やかな壁画の発見など、華やかなニュースが相次いで報道されています。これらに比べると、まことに地味なニュースなのですが、古代史を語るうえでは遜色のない発見があったことをお伝えしたいと思います。
それは大阪府の茨木市総持寺遺跡から出土した、字が刻まれた土器の破片のことなのです。
この土器には「調」が刻まれていたのです。土器は陶邑(すえむら)古窯跡群(現在の堺市泉北ニュータウン一帯にあった日本最大の須恵器生産地)で焼かれた須恵器の甕(かめ)の口縁部片で、6世紀前半に製作されたことが明らかにされたのです。
問題は6世紀前半の甕に「調」の字が刻まれていたことにあります。調ですぐに思い出されるのは租庸調の調です。8世紀初めに完成した大宝律令によると、調は正丁(成年男子)に課された税のことで、諸国の特産品を納めることが義務づけされていたのです。
この須恵器に刻まれた調の字は、大宝律令の制定からさかのぼること150年、租庸調制度を初めて記した大化の改新の詔(646年)からでも100年以上前にすでに税の制度が取り入れられていた可能性を示したのです。
6世紀前半のヤマト政権は、さまざまな問題に直面していました。国内では九州の筑紫君磐井の反乱、国外では朝鮮半島南部をめぐる百済と新羅の進出などがあって政権基盤が大きく揺さぶられていたのです。
こうした内外の危機に対処するため、新しい政治制度が導入されたのです。ウジ・カバネ制、部民制、屯倉制、国造制などです。こうした先進的な制度は、渡来系の諸氏族がもっていたもので、これを蘇我氏が積極的に取り入れたのです。
岡山大学名誉教授の吉田晶さんは、「調の字の存在は、この改革の一環として徴税制度も改められたことを示す」と積極的に評価されています。
これに対して、京都橘女子大学の門脇禎二さんは、「調はこの時代、税制ではなく、貢物の意味で使われた」と主張されています。
一片の土器が、税のルーツをめぐって論議を呼んでいるのです。土器に刻まれた「調」が税制の存在を意味するなら、6世紀前半は古代国家の段階に達していたと評価することも可能です。一片の土器が日本古代史の書き換えも必要になるような重要な情報をもたらしたのです。

写真:茨木市総持寺遺跡で出土した「調」と書かれた須恵器(大阪府教育委員会提供)

『広報ふじいでら』第347号 1998年4月号より

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