大和川の堤と船橋遺跡の発掘1(No.106)

更新日:2013年12月20日

大和川左岸北条の堤断面

教育委員会では、北条雨水ポンプ場の建設に関連して、大和川への放流管敷設予定地の発掘調査を進めています。放流管は現在の大和川左岸堤防を横断する計画です。したがって、発掘調査では、大和川付け替え時の堤と、その下に埋もれた遺跡を見つけることが目標になりました。
現在の堤を断ち切るわけですから、珍しい調査となります。本当は、多くの市民のかたがたに調査成果を見ていただきたいのですが、安全確保の関係で調査期間が短く、どうしても現地説明会の日程が取れません。そこで、この紙上を借りて、現地の発掘調査の様子をお伝えし、ご容赦いただきたいと思います。
まず第一の目標とした大和川付け替え時の堤防についてご紹介しましょう。
現在の大和川は、石川との合流点から堺市方面に向けて流れています。しかし、もとは、いく本かに分流しながら、東大阪市方面へ流れていたのです。その流域には広大な農地が拓かれたのです。しかし、元来、低湿地だったこともあって、大和川の氾濫で、たびたび大きな被害を被っていたのです。
今米村(現東大阪市)の庄屋、中甚兵衛さんの粘り強い請願があって、宝永元(1704)年に堺方面に向けて大和川の付け替え工事が始まったのです。石川との合流点から川辺村(現大阪市平野区)までの上流部を幕府が、そこから下流の難工事区域を近郷の大名が分担して工事にあたりました。
記録によると、堤の規模は、根置(堤の下場幅)13間(23.4メートル)、高さ2.5間(4.5メートル)、馬踏(堤の上場幅)3間(5.4メートル)であったことが知られています。現在の堤は、幅50メートル、高さ8メートルもありますので、当初の堤をすっぽり覆い隠していることが予測されたのです。発掘調査でも予測どおり、現在の堤の中から江戸時代に築かれた当初の堤が現れました。
まず、その構造ですが、写真を参考にしながら説明しましょう。写真の下の方、最も黒く写っている帯状の地層があります。これは築堤工事前の地層で、その上面が田んぼであったことが分かります。そこからやや明るくなる地層が台形に積み上がっていく様子が分かるでしょうか。これが当初の築堤土です。
土の種類はシルト(細かい砂粒を含んだ粘土)質を使っていて、水漏れを防ぐ、いわゆる鋼土としているようです。

写真:大和川左岸北条の堤断面

『広報ふじいでら』第356号 1999年1月号より

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