大和川の堤と船橋遺跡の発掘2(No.107)

更新日:2013年12月20日

大和川左岸小山の堤断面

この調査で見つかった堤の規模を測ってみると、中家文書に記された規模や1キロメートル下流の小山雨水ポンプ場建設時に見つかった堤よりも小さいことが分かりました。根置(堤の下場)でみると、中家文書より、4.4メートル、小山雨水ポンプ場より2.5メートルも狭いのです。おそらくその理由は、中家文書の規模が、付け替え堤の標準を示したもので、上流域にいくにしたがって、その規模を減じたのではないかと考えています。
ところが、堤の完成からまもなく、かさ上げ工事が実施されたことが記録されています。最初の規模では心もとなかったのでしょうか。このかさ上げ工事の地層も、今回の調査ではっきり出てきました。かさ上げして積まれた土砂層の中には、黒い帯状の土層を数本はさんでいたのです。この黒い土層は腐植土で、一定の期間、そこが堤の表面であったことを示し、記録のとおり、数回にわたって堤の補強工事が行われたことを発掘調査で確かめることができたのです。
この補強工事に使われた土砂は、最初の堤の土(シルト質土)と全く違って、大きな礫の混じる砂だったのです。おそらく川底に堆積した川砂を使ったのでしょう。なんと雑な工事というのが最初の印象でした。ところが、これがなかなか理にかなった工法だったのです。
大水が出て、堤の横腹を洗い、一部を崩し始めたとします。砂でできた堤防は、洗い流された部分に堤防上部の土砂を崩し落として自動的に補修してしまうのです。そうした大水との戦いの跡は、大和川側の堤下部の地層が複雑に入り乱れていることからもうかがえるのです。
さて、大和川の付け替え工事は、宝永元(1704)年に開始されましたが、わずか8ヵ月足らずで完成しています。信じられないほどの突貫工事だったようです。中家文書によると、動員された延べ人数は240万人というから驚かされます。それだけ差し迫った工事であったと同時に、時間がかかると、付け替えに異議が出てきて、工事が進まなくなることも心配したのではないでしょうか。
ともあれ、大和川の流れは西に向けられ、中河内一帯は洪水の恐怖から解放されたのです。しかし、堺の港は大和川の運ぶ土砂で機能が低下し、藤井寺、松原、堺など大和川以南の村々は、新しい堤がダムようになって洪水に悩むことになったのです。

写真:大和川左岸小山の堤断面

『広報ふじいでら』第357号 1999年2月号より

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