大和川の堤と船橋遺跡の発掘4(No.109)

更新日:2013年12月20日

大和川川床で採集された弥生時代前期の土器

この弥生時代の大溝については、相当強いインパクトがあって、30年経った今でも、その色合いや形を鮮明に思い出すことができます。しかし、正確な大きさや場所まではあいまいでした。昔の野帳(野外調査用の小型の手帳)をひっくり返してみました。
ありました。昭和42年3月5日国府遺跡を訪ね、船橋遺跡に行っています。国府遺跡では、畑の中を歩き回ってサヌカイトの剥片(はくへん)を拾ったことが簡単に記されていただけでした。一方、船橋遺跡のほうは、かなり興奮気味な記録が残されていました。
問題の大溝の記録です。場所は大和川の左岸、洗い堰(せき)の西、36メートルとあります。歩測の数値です。河岸に露出した大溝の断面の略図と法量が書かれています。幅が2.2メートル、深さ1.3メートル、V字形の大溝とあります。
大溝の埋土は、真っ黒で、多量の土器を含むとあります。また、大溝の上部は破壊されていて、本来はもっと大規模であろうこと、さらに深さに比べて幅が広いことから、露出している断面は、大溝の斜め切断面の可能性があることなどが書き込まれていました。さらに付近に散乱している土器が弥生前期に限られていて、この大溝がこの期の船橋ムラの周溝かもしれないとコメントしてありました。
それから10数年経った昭和55年、再び同じ場所を訪れました。付近の様相は一変していて、新しい川砂が覆いつくしていました。注意深く探したのですが、ついに大溝の断面を見ることはできませんでした。おそらく大和川が押し流してしまったのでしょう。あの大溝は、どこへ向かい、どんな目的で掘られたものだったんだろう。迷宮入りかとあきらめていた矢先、北条雨水ポンプ場の建設計画が持ち上がり、その事前調査をすることになったのです。
調査予定地は、大溝を見た地点から西へ約60メートルです。大溝そのものがここを通過している可能性はそう高くないと思いました。ただ、この大溝が予想どおり環濠だとすると、船橋弥生ムラの本拠が姿を現すのではないかとわくわくしていました。
しかし、調査が始まってみると、残念ながら、調査区の大半は付け替え前に大規模な洪水にみまわれていて、弥生集落は痕跡さえ見つかりませんでした。わずかに奈良時代の建物や溝が残されていただけだったのです。
あの大溝に再びお目にかかるのはいつになるのか、楽しみが先に延びたと思うことにしました。

写真:大和川川床で採集された弥生時代前期の土器

『広報ふじいでら』第359号 1999年4月号より

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