魏志倭人伝とは(No.70)

更新日:2013年12月18日

神原神社古墳出土の景初三年銘のある三角縁神獣鏡

「倭国大いに乱れるという記事が載っている魏志倭人伝について、もう少し聞かせてください」と同じ男性からの質問です。
『三国志』は、3世紀の中国に分立した魏、呉、蜀の三国の歴史をまとめた書物で、280年代にはでき上がったようです。その著者は、三国滅亡後に中国を統一した晋王朝に仕えた陳寿です。『三国志』は、『魏書』『呉書』『蜀書』の三部で構成され、合計65巻から成り立っています。『魏書』の部分は30巻を占め、その最後の部分に「東夷伝」「倭人」の条があるわけです。
古代史に関心のあるかたなら、だれもが知っているのが「魏志倭人伝」です。「魏志倭人伝」は、『三国志』に収められた『魏書』のうちの「東夷伝」の項の「倭人」の条というのが正確な呼び方だということになります。
さて、「魏志倭人伝」の内容は、大きく分けると、

  • 朝鮮半島に置かれた魏の植民地帯方郡から邪馬台国にいたるコースの説明
  • 倭の自然や倭人の生活情景
  • 邪馬台国と魏との外交関係

の三部から成り立っています。
第一部のコースに関する記述では、通過する国までの距離と方位、その風習や人口まで描いています。邪馬台国論争では、この距離と方位をどのように読み取るかで、所在地が九州や畿内に分かれることから起こったのです。
第二部では、倭の地が温暖な気候に恵まれていること、入れ墨や貫頭衣といった風俗をもっていること、そのほか衣食住に関することまで記しています。さらに墓や葬儀の様子や宗教について、税金の徴収や大人(たいじん)や下戸(げこ)といった政治や社会制度についても触れています。
第三部では、邪馬台国の女王卑弥呼が景初3年に使いを派遣して、魏王朝に朝貢したことや、その返答として、卑弥呼を親魏倭王と称し、有名な「銅鏡百枚」などいろいろな品物を下賜(かし)したことを記録しています。最後に卑弥呼の死後、政情が不安定となりますが、台与(とよ)の擁立でやっと安定を取り戻したことで記述が終わっています。
邪馬台国の所在地論争が華やかな「魏志倭人伝」ですが、その重要性は決してこれに尽きるものではありません。中国人が見聞きして、そして記録したということには注意をしなければなりませんが、3世紀の日本列島における日常生活の情景や、特異な風俗や政治、社会構造についての大切な史料となる点も見逃せないのです。

写真:神原神社古墳出土の景初三年銘のある三角縁神獣鏡(文化庁提供)

『広報ふじいでら』第320号 1996年1月号より

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