遺跡の発見の顛末(No.115)

更新日:2013年12月18日

山崎直方さんの国府遺跡スケッチ

藤井寺には巨大古墳が集まった古市古墳群とともに、全国に名前を知られた遺跡があります。それは惣社2丁目を中心とした国府遺跡です。大正期の多量の人骨やそれに伴う縄紋土器やけつ状耳飾りの出土、昭和に入ってからの河内最古の寺院跡や旧石器の発掘など、考古学・人類学の発展にエポックメイキング(画期的)な役割をこの国府遺跡が担ってきたからに他なりません。
そこで今回から国府遺跡をめぐる調査と研究成果の歴史をひも解いてみようと思います。まず、国府遺跡の発見の経緯からみていくことにしましょう。
国府遺跡が学術雑誌に最初に登場したのは、明治22年(1889年)5月のことでした。今から実に120年近くもさかのぼります。それは『東京人類学會雑誌』第4巻第39号に掲載された山崎直方さんの短い通信文です。その全文を紹介することにしましょう。「河内に於ける石器時代遺跡の発見 拝啓近来如何なるまはり合せににや毎日曜降雨の為何等の遠足も不仕遺憾ながら遂に一片の御通知も不申上候處今日曜日には断然雨を衝て遠足し其結果は實に望外にも望外にも至極面白き事にて御坐候實に五月十九日は本邦に於ける人類学の歴史中一の紀念日とも可致程小生は羨しく感じ申し候何となれば小生は石器時代の顕然たる遺跡を河内國に発見仕候幸に後報御待ち被下度候(山崎直方)」望外を二度も繰り返すところに山崎さんの興奮の度合いが読み取られます。
古い文章なので、なかなか読みづらいのですが、要約すると、最近日曜日は雨が多くて遺跡探しに行けなかったのですが、5月19日は雨をついて出掛けることにしました。あまり期待していなかったのですが、河内の国で人類学の歴史に刻まれるような一大石器時代の遺跡を発見しました。後の報告をお楽しみにしてください。こんな具合でしょうか。
この最初の通信文には河内の国と記すだけで、遺跡の所在地や名前が出てきません。遺跡の場所がはっきりするのは、山崎さんが次号に送った報告文です。この報告は、同じく『東京人類学會雑誌』第4巻第40号に掲載されました。「河内國ニ石器時代ノ遺跡ヲ発見ス」であります。
「石器時代ノ顕然タル遺跡ヲ河内國志紀郡國府村ニ発見セリ村ハ大坂ヲ距ル五里許ニシテ河内國ノ中央大和川石川ノ二流相會スル所ニ沿ヘリ」と遺跡の位置を記し、国府遺跡に一致することがはっきりしました。 山崎さんがここで採集した遺物には、石器、貝塚土器、獣骨、獣歯、古代土器、布目瓦を挙げておられます。(つづく)

イラスト:山崎直方さんの国府遺跡スケッチ(『東京人類学会雑誌』4巻40号1989年より)

『広報ふじいでら』第365号 1999年10月号より

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