国府遺跡を訪れた人々(No.116)

更新日:2013年12月18日

空から見た国府遺跡(西南から撮影、中央を横断するのは石川、左上方は大和川)

国府遺跡発見の報をもたらした山崎直方さんは、さらに『東京人類学會雑誌』に「京摂地方古跡指明圖ニ就テ」を発表されています。明治25年(1892年)11月のことでした。古跡指明圖とは今流でいえば、遺跡分布図になるでしょうか。ここに国府遺跡が初めて地図上に記されることになったのです。山崎さんは、この図の解説の中で国府遺跡に触れ、ここで採取した石器がすべて粘板岩製であることに注目すべきであり、またその貝塚土器(縄紋土器)は、東京近郊のものよりも岡山県のものに似ていると卓見を披露しています。
山崎さんの一連の報文に促されるように、多士済々のメンバーが国府遺跡を訪れています。京都帝国大学の足立文太郎さんは、明治29年(1896年)に『東京人類学會雑誌』に「人類学瑣談」を発表し、打製石器のほかに磨製石器も存在することを指摘されています。また、出土した獣骨の年代に関しては、貝塚でない土中に石器時代の骨が保存される事例をヨーロッパに求め、この獣骨が石器時代のものである可能性を説いておられます。
のちに京都帝国大学に、わが国最初の考古学研究室を開設する濱田耕作さんも南河内の遺跡踏査のかたわら国府遺跡に立ち寄り、記録を残しておられます。明治31年(1898年)と明治33年(1900年)に同じく『東京人類学會雑誌』に掲載されています。その中で濱田さんは、国府遺跡の打製石器は、粘板岩製といわれてきたが、実は安山岩の一種の讃岐石(サヌカイト)であり、その産地は二上山麓の可能性があると重要な指摘をされています。
また、明治34年(1901年)には、のちに日本原人説を唱える清野謙次さんが、明治35年(1902年)には原田正彦さんがそれぞれ国府遺跡の踏査記録をとどめています。この報文中原田さんは、国府遺跡では石器とともに多数の石屑が見つかることに注意を向け、この遺跡では石器の製作も行っていた証拠ではないかと論じておられます。
国府遺跡の踏査記録を残した足立、濱田、清野、原田さん以外にも幾多の人々がこの地を訪れています。なかでも、神戸在住の福原潜次郎さん、大阪毎日新聞社主の本山彦一さんは、精力的に国府遺跡の踏査を繰り返された代表的な人物でした。
京都帝国大学の歴史学者喜田貞吉さんを介して福原さんの採集された多数の石器を実見した濱田耕作さんは、粗い作りの大形の石器に注目されました。その形と大きさは、ヨーロッパの旧石器時代の石器によく似ていたからです。しかも福原さんによれば、この石器は2メートル前後の砂利層の下の粘土層に含まれているというではありませんか。(つづく)

写真:空から見た国府遺跡(西南から撮影、中央を横断するのは石川、左上方は大和川)

『広報ふじいでら』第366号 1999年11月号より

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