石器時代人論争(No.123)

更新日:2013年12月18日

国府遺跡の発掘の新聞報道(大正8年4月8日付けの大阪毎日新聞)

大正年間の国府遺跡の発掘調査が人類学・考古学の学史上で果たした大きな足跡で忘れることはできないものに清野謙次さんの業績があります。
大正8年・大正10年(1919年・1921年)、京都帝国大学の清野さんと佐々木宗一さんは、濱田耕作さんの二次調査地点の北側で発掘を行い、6体の人骨を掘り当てました。この調査で出土した人骨の数や特徴は、一見しただけではそれまでの調査と比べて、とりたてて目を引くものはありませんでした。しかし、重要な成果は、研究室に持ち帰った人骨の丹念な計測や観察からもたらされたのです。
このころ、日本の人種・民族をめぐる議論は、人類学や考古学の専門の学者にとどまらず、いわば社会的な関心事でもありました。明治時代のこの問題に対する議論は、もっぱら日本列島の石器時代人がアイヌ人の先祖なのか、あるいは別の人種なのかで闘わされていました。この議論で注意しておきたいのは、石器時代人は日本人の直接の先祖ではなく、先住民であるということを前提にしていたことです。
最初の発言者は、アメリカ人動物学者で大森貝塚の発掘で有名なエドワード・S・モースさんでした。彼は日本の石器時代人はアイヌ以前の住民だと主張し、プレアイヌ説を展開しました。オーストラリア人のハインリッヒ・P・シーボルトさんは、『日本書紀』や『古事記』を参考にしてアイヌ説を唱えました。さらに地震学の祖としても有名なイギリス人ジョン・ミルンさんは、アイヌの人々の伝説に登場するコロボックルこそ石器時代人だと考えました。彼らには、北米大陸におけるアメリカインディアンとヨーロッパからの入植者の関係をイメージした共通点がうかがえます。
こうした欧米人学者の考えは、日本人学者にも影響を与えました。東京帝国大学の小金井良精さんはアイヌ説を、同じ大学の坪井正五郎さんはコロボックル説を主張し、対立したのです。この論争の行方は、大正2年(1913年)、坪井さんがロシアのペテルブルグで急死されたことで小金井さんの不戦勝のようなかっこうで幕を閉じました。
大正年間には定説となった観のあった石器時代人アイヌ説に果敢に挑んだのが清野さんでした。清野さんは、自身の採集した国府遺跡をはじめとする多数の人骨を丹念に調査して、一つの結論を導きだしました。それは、日本の石器時代人骨が現代日本人とも現代アイヌの人々とも似ている点と似ていない点、両方をあわせ持っているということでした。つまり、現代日本人は石器時代人がベースになり、その後、外来の人々との混血によって誕生したのだと主張したのです。
石器時代人は、清野さんによって単なる先住民ではなく、現代日本人の直系の先祖だと認められたのです。それは同時に日本の人類学・考古学が欧米の影響から解き放たれた瞬間でもあったのです。(つづく)

写真:国府遺跡の発掘の新聞報道(大正8年4月8日付けの大阪毎日新聞)

『広報ふじいでら』第373号 2000年6月号より

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