河内最古の寺院址(No.125)

更新日:2013年12月18日

衣縫廃寺の塔心礎と出土した飛鳥寺式軒丸瓦

大正10年(1921年)、京都帝国大学の佐々木宗一さんの発掘調査を最後に、国府遺跡は元の静けさを取り戻します。人骨の出土が予想される区域があらかた掘りつくされたとみられたのでしょうか。
縄紋墓地の実際は、大正年間に発掘された範囲より西や南に大きく広がることがのちの発掘調査で明らかになっています。ともあれ、この時点から国府遺跡を訪れる人もぐんと少なくなりました。
昭和2年(1927年)、石田茂作さんが飛鳥・白鳳時代に建立された古代寺院の全国的な調査に着手されました。石田さんがいつ国府遺跡を訪れたかはっきりしませんが、現地調査にこられたことは確かです。石田さんは、8年を費やして、大阪府、奈良県を中心とする古代寺院を丹念に実地調査し、昭和11年(1936年)『飛鳥時代寺院址の研究』という大書をまとめられました。この本は飛鳥・白鳳時代に創建されたお寺を網羅しており、今も古代寺院研究のバイブル的な存在になっています。
石田さんが取り上げた国府遺跡内の古代寺院については、すでに梅原末治さんが、大正6年(1917年)京都帝国大学第1回の発掘調査の報告書の中で、瓦の出土について触れ、平安朝以前にさかのぼる古い寺院があったことを指摘されています。
石田さんは、遺跡のほぼ中央に残る塔心礎を記録され、その型式がわが国では最古に属することを明らかにされ、同時に付近を踏査し、古瓦が集中的に散布する箇所をチェックします。塔心礎は元の場所を動いていないとし、その東の古瓦の集中散布地に金堂を、北東の箇所に講堂があったのではないかと推理されています。そうすると、法起寺式の伽藍配置が復元できるのではないかと主張されます。
また、この寺の創建年代については、紋様が入った軒瓦の所蔵者を尋ね、その記録を取り、考察を進められ、国府遺跡の寺院が飛鳥時代にさかのぼることを明らかにされています。
最後にこの寺が誰によって造られたのかという問題に踏み込んでいます。石田さんは、この地の小字「衣縫」をヒントに衣縫造ではないかと考察します。衣縫とは裁縫をする工人のことを指し、衣縫造はその工人の長という意味です。『続日本後紀』仁明紀には「右京人孝子衣縫造金継女居河内志紀郡・・・」という記述があります。いつまでさかのぼるかははっきりしないのですが、衣縫造の一族が志紀郡(国府遺跡の一帯は志紀郡に属すると考えられる)に居住していたことを伝える史料で、石田さんは国府遺跡の古代寺院を衣縫造の氏寺とする傍証とします。こうして、石田さんはこの寺院を「衣縫廃寺」と名付けられたのです。
衣縫廃寺の立派な塔心礎は今も現地にあります。ぜひ一度ご見学ください。(つづく)

写真:衣縫廃寺の塔心礎と出土した飛鳥寺式軒丸瓦

『広報ふじいでら』第375号 2000年8月号より

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