国府型ナイフ形石器(No.126)

更新日:2013年12月18日

国府型ナイフ形石器の出土状況(左)

昭和32年(1957年)5月、関西大学の末永雅雄、同志社大学の酒詰仲男、大阪市立大学の島五郎さんらが久々に国府遺跡の発掘調査を行いました。この調査の記録は公刊されたものがなく、詳しいことは分からないのですが、調査目的の一つに、旧石器を見つけることがあったようです。
末永さんらの調査の2カ月後、今度は成城大学の山内清男、島五郎、倉敷考古館の鎌木義昌さんらが発掘調査を行っています。同じメンバーで翌33年にも調査を実施し、重要な成果がもたらされました。
その一つは、旧石器の発見です。日本における旧石器文化は、相沢忠洋さんが群馬県赤城山麓の岩宿で黒曜石の石器を見つけたことがきっかけとなって研究が進みました。勢い研究のフィールドは関東が中心でしたので、西日本の、この分野での研究は立ち遅れていたのです。
山内さんらは、縄紋土器を含む真っ黒い土の下まで調査を進めました。国府遺跡では、土器を含む地層の下には、褐色の礫層か、黄色の粘土層が堆積しています。山内さんらのトレンチ付近では黄色の粘土が現れました。この粘土層は普通、地山と呼んで人手が加わっていない自然の堆積層と見ていた地層なのです。ところが、掘り進めると、サヌカイトの小さい破片がいくつも出てきたのです。西日本での確実な旧石器時代の遺跡が見つかったのです。
出土した石器を研究室に持ち帰った鎌木さんは、これらの石器が規則正しい割り方で作られていることを突き止めたのです。そして、特徴的な翼のような形をした破片(翼状剥片)から作られた石器を国府型ナイフ形石器、その一連の工程を瀬戸内技法と名付けました。瀬戸内技法はサヌカイトという石材の性質を知り抜いた人々が考え出した、極めてシステマティックな石器作りの方法です。今では、国府型ナイフ形石器と瀬戸内技法は、西日本の後期旧石器文化を象徴する存在と知られるにいたっています。
もう一つのテーマは、これまで多数出土している人骨の時期を再検討しようというものでした。大正年間に出土した人骨は、一括して石器時代人と扱われてきました。長い石器時代のうち、一体どの時期の人骨なのかを見定めようと思ったからです。
山内さんらの調査では合計5体の人骨が出土しました。墓穴の切り込み位置の慎重な検討の結果、3体は弥生時代中期、残り2体は縄紋時代晩期と前期であるとの結論に達しました。大正年間に出土した人骨の年代を直接確かめることはできなかったのですが、国府出土人骨に弥生時代中期のものが含まれていることを明らかにしたのです。
山内さんらの調査とその成果は、久しぶりに国府遺跡の名前を全国に知らせることになったのです。(つづく)

写真:国府型ナイフ形石器の出土状況(左)
石器の接合資料(右)(羽曳野市翠鳥園遺跡:羽曳野市教育委員会)

『広報ふじいでら』第376号 2000年9月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当、世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-9507

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。