国指定史跡に向けて(No.127)

更新日:2013年12月18日

写真:出土した人骨(大阪府教育委員会)

昭和40年代、日本は高度経済成長時代を迎えていました。藤井寺市周辺は都心への交通の便のよさから近郊住宅ゾーンとして注目されだしました。国府遺跡のあたりでも住宅開発が活発になってきたのです。
昭和45年(1970年)、住宅開発の波が国府遺跡の中心部にまでおよびそうな気配を察知した大阪府教育委員会は、国府遺跡の重要性と、その範囲を探るために発掘調査を実施することにしました。
調査は、大正年間に多数の人骨が見つかった地点の周囲に、大小12本のトレンチを設けて進められました。この調査では、縄紋時代の墓地や村の範囲、飛鳥時代創建の衣縫廃寺の伽藍配置を明らかにしたいという目的がありました。
この調査では、縄紋墓地の範囲がほぼつかめたことが大きな成果の一つでした。縄紋墓地は大正年間に多数の人骨が見つかった地点から、南西と西方50メートルのところで人骨が出土して、その範囲を推測できるようになったのです。当時、大阪府教育委員会におられた水野正好さんらは、この調査結果をうけて、国府遺跡では馬蹄形の縄紋墓地が形成され、それが開口する西側に集落が展開するのではないかと考えました。
しかし、集落については、その存在を直接証明する住居跡が見つかっておらず、馬蹄形の縄紋墓地も形成過程がはっきりしていないという問題をかかえていました。それでも、縄紋時代の墓地と集落の関係を考えるきっかけとなったことは大きな成果であるに違いありません。
もう一つの重要な成果は、衣縫廃寺の寺域がつかめたことです。衣縫廃寺は、石田茂作さんによって飛鳥時代創建の法起寺式伽藍配置をとる古代寺院として学界に紹介されていました。その衣縫廃寺に初めて発掘調査のメスが入ったのです。
塔心礎の周囲のトレンチでは、不等沈下を防止する地盤改良(掘り込み地業)の痕跡や東回廊の遺構を見つけました。同時に出土した大量の瓦を時期判定の物差しにして、衣縫廃寺は石田茂作さんの想定どおり、飛鳥時代創建の法起寺式伽藍配置の堂々たる古代寺院であったと結論付けられました。
ただ、金堂や講堂の位置は、直接遺構の存在を確かめたわけではありませんので、今後の調査によって訂正されるかもしれません。
この調査成果を基本として、国府遺跡は、その主要な範囲が定められ、昭和49年(1974年)に国指定史跡となったのです。
平成21年(2009年)には国府遺跡の発見120年を迎えます。この日本屈指の複合遺跡を正しい姿で後世に引き継ぐことは、現代に生きる私たちの努めだと考えています。(つづく)

写真:出土した人骨(大阪府教育委員会)

『広報ふじいでら』第377号 2000年10月号より

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