縄紋前期の墓地と集落(No.128)

更新日:2013年12月18日

人骨に伴って出土した小型土器(関西大学博物館『博物館資料目録』1998年より)

昭和55年(1980年)の年末、藤井寺市教育委員会では、道路改良工事に先立って、国府遺跡の発掘調査を実施することになりました。調査の場所は、大正年間に多数の人骨が見つかった台地のすぐ北側の崖下です。崖下のラインに沿って幅1.8メートル、長さ17メートルのトレンチを設けて進めることにしました。トレンチの場所は、大正6年(1917年)、濱田耕作さんが国府遺跡に最初の発掘のメスを入れたA地点と同じ畑です。
調査を進めていくと、トレンチ内に南北に走る二条の溝が見つかりました。この溝は真っ黒な粘り気のある土で埋まっていました。西側の溝からは、上層に弥生末期のたくさんの土器が含まれていて、それより下は縄紋前期中葉の土器が出土しました。東側の溝は縄紋前期前葉に埋まり始め、中葉で大体埋まってしまったことが分かりました。両方の溝からは、土器だけではなく、各種の石器や獣骨も出土しました。獣骨にはシカとイノシシの大きな骨がみられ、それらのうち、いくつかは人為的に打ち割られたものや火にかかったものがあることが注目されました。つまり、これらの獣骨は調理後に棄てられた、いわば、生ゴミだったのです。とすると、この溝の直上に住居が営まれていたと考えざるをえなくなります。ところが、直上の台地は同時期の墓地に使われていたのです。
考えられることは、墓地と住居が混在したか、微妙なタイムラグがあって住居と墓地が交代したのかどちらかということになります。
国府遺跡でこれまでに見つかった人骨には、縄紋土器で頭部を覆っているものがあることが知られていました。その土器型式を調べると、墓地が営まれた時期が分かるのではないかと思ったのです。早速、古い報告書を引っ張り出し、現物を保管している大学にも行って調べました。
その結果、人骨頭部を覆っていた土器は縄紋前期のうちでも中葉に限られることが分かったのです。したがって、台地上の墓地は縄紋前期中葉に形成された可能性が濃くなったのです。
一方、溝から出土した土器をよく観察すると、墓地が形成された縄紋前期中葉の土器は小破片が多いのに対し、一段階前の縄紋前期前葉の土器は大きな破片が目立つことが注意されたのです。
これらのことを総合すると、台地上は、縄紋前期前葉には住居区域となっていたが、中葉になると、住居はほかへ(おそらく北西側)移動し、跡地が墓地に利用されたのではないかと、考えるにいたりました。
この崖下の調査は、小規模なものでしたが、国府遺跡の縄紋前期の墓地と集落の関係を考えるたくさんのヒントを与えてくれました。
次回は、国府遺跡の縄紋前期ムラの人口規模について考えてみようと思います。(つづく)

写真:人骨に伴って出土した小型土器(関西大学博物館『博物館資料目録』1998年より)

『広報ふじいでら』第378号 2000年11月号より

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