縄紋国府ムラの人口推計2(No.130)

更新日:2013年12月18日

国府遺跡出土の縄紋前期土器

縄紋前期の国府ムラの人口を知るもう一つの方法があります。それは、墓地が営まれた年数と埋葬された人数から求める算式です。
縄紋前期後葉の墓地には、65人が埋葬されたと前回述べました。ではこの前期後葉という時期の年数をどうやって割り出すかが問題となります。近畿地方の縄紋前期には8つの土器型式が知られています。前期後葉はこのうち、土器型式2つが相当しますので、縄紋前期のうち4分の1ということになります。
ここで困ったのは、縄紋時代の実年数には二つの大きく対立する学説があることです。一つは放射性炭素の残存比率から求める理化学的な計算方式です。放射性炭素法は、アメリカ・シカゴ大学のW.F.リビーさんが開発した年代測定法です。その原理は地球上の生物は一定の割合で体内に炭素を取り入れるが、生物が死ぬと炭素の取り入れがストップする。炭素のうち、原子量14の炭素(以下C14)は、ベータ線と呼ぶ放射線を出しながら規則正しく崩壊していく。その崩壊速度は5560年で半減するので、生物遺体のC14価を測定すれば、生物の死後の経過年数が求められるというものなのです。この方法は、遺跡から出土した貝殻や骨、木製品等が試料として使えるということもあって、日本でも多くのデータが集まりました。
C14測定によれば、日本の縄紋時代の始まりは、今から1万3000年前にさかのぼるという結果がえられ、縄紋前期は6000年前から4600年前、1400年間続いたといいます。
この結果に対して、縄紋土器の編年研究を進めてこられた成城大学の山内清男さんが猛烈な反論を展開されました。山内さんは、ユーラシア大陸と日本列島出土の同種遺物の比較やヨーロッパにおける氷縞粘土法による年代を根拠に縄紋時代の始まりを今から4500年前であるとしました。両者には、縄紋時代の継続年数に4倍以上の開きがあるのです。
山内さんが亡くなられたこともあって、現状では長編年が圧倒的に有利な情勢ですが、短編年を見直す動きもあって、完全に決着がついたわけではありません。
というわけで、縄紋前期は、長編年で1400年、短編年で400年続いたとされ、前期後葉はそれぞれ350年、100年ということになります。
縄紋時代の15才の平均余命が25年程度とすると、20年で世代が交代します。すると、長編年では17.5世代、短期編年では5世代の交代があったことになります。これで埋葬人数を割ると、ムラの一時点の成人数を求めることができます。長編年では3.7人、短期編年では13人という答えになります。これにほぼ同数の子供の人数を加えたものがムラの人口ということです。
国府ムラの人口は、けつ状耳飾りをヒントにすると、13人、ムラの継続年代から割り出すと、8人あるいは26人という数字がえられます。どの数字が実態に近いのでしょうか。残念ながら、今のところ、これを確かめる有効な方法を思いつきません。(つづく)

写真:国府遺跡出土の縄紋前期土器

『広報ふじいでら』第380号 2001年1月号より

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