埴輪列が出てきた(No.11)

更新日:2013年12月19日

空から見た墓山古墳の周辺(中央:墓山、下方:浄元寺山)

列になって、顔を出しかけた埴輪(はにわ)片と川原石を前に、わたしは額に手を当ててしゃがみこんでしまいました。かたわらのベテランの男性調査員に問いかけました。
「何か変やなあ」彼は「そうですね、逆みたいですね」とつぶやくように答えたのです。
これが事件というもいうべき西墓山古墳の発掘調査の序章だったのです。
藤井寺市野中の南、羽曳野市との境界には、大前方後円墳墓山古墳がその威容を横たえています。墓山古墳のうっそうとした森の西側には、野中墓地をはさんで浄元寺山(じょうがんじやま)古墳と呼ぶ大方墳があります。
昭和62年12月、この浄元寺山古墳のすぐ南側にマンションを建設する計画が、市教育委員会に提出されました。そこは浄元寺山古墳の濠(ほり)を埋めて作られた、細長い児童公園に接している場所だったのです。
わたしたちは、通常、発掘調査を始めるまでに、周辺のこれまでの調査成果や、現地の状態から見つかる遺構や遺物の種類、量を予測して、調査の期間や費用などを胸算用します。この場所では、うまくいくと、浄元寺山古墳の濠の外側をめぐる堤が見つかり、その斜面を覆った川原石の葺石(ふきいし)や、上面を飾った埴輪などが出土するのではないかと期待したのです。しかし、現地にはつい最近まで住宅が建っていて、地下が乱されていることも予想されたのです。したがって、大きな期待はもてないなあというのがわたしの正直な感じだったのです。発掘調査は、こういった期待と不安のうちに、昭和63年3月7日に開始しました。
はじめに記した私の戸惑いは、調査開始後まもなく遭遇した出来事だったのです。その戸惑いは、住宅の床下になりながらよく残っていたなあという驚きと、もう一つ大きな理由があったのです。埴輪片と川原石が東西の方向に列を作るように出土し、その方向が浄元寺山古墳の一辺にほぼ平行していると分かってきたのです。はじめの思い込みもあって、これは浄元寺山古墳の堤を構成する遺構だと判断しました。しかし、掘り進めていくと、落ちていくはずの葺石が逆に上っていくのです。
この事態が、わたしの頭を混乱させたのです。堤が見つかるはずという、半端な思い込みを打ち砕くには、しばらくの時間を必要としました。

写真:空から見た墓山古墳の周辺(中央:墓山、下方:浄元寺山)

『広報ふじいでら』第261号 1991年2月号より

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