その歴史的意義2(No.22)

更新日:2013年12月19日

出来上がったばかりの墓山古墳の想像図

西墓山古墳が墓山古墳の陪塚であるとしても、なぜこれほどまで大量の鉄器を埋納しなければならなかったかという疑問は解けません。鉄は古墳時代の最も重要な資源の一つでした。鉄資源の安定的確保は当時の為政者にとってまさに死命を制する重要課題であったはずです。その鉄を惜しげもなく古墳に埋納しているのです。なぜだろう。
考えてみれば、古墳そのものが現代の感覚からすれば、不合理極まりない産物なのです。濠を掘り、土を盛り上げ、葺石を施し、埴輪を立て並べる。古墳造りは、鉄と並んで貴重な資源であった人的労働力を、惜しげもなく投入してでき上がったものなのです。
一昔前、古墳の濠水はかんがい用に利用することを初めから計画していたので、古墳造りは農業生産力の向上にも役立ったと考えられていました。しかし最近の発掘調査によれば、古墳の濠はため池としての機能をもっていなかったということが明らかになりつつあります。延べ何万人もの動員をかけ、墳丘を築き、大量の鉄製品を埋納してしまう。なんと無駄なことをしたんだろう。
その時代に最も大きい古墳を造り得た人物こそが大王と呼ばれた人物だとすれば、古墳が発生した3世紀から大仙古墳(仁徳陵)や誉田御廟山古墳(応神陵)が造られた5世紀の後半にいたる間、古墳はどんどん大きくなっていきます。それはまるで巨大古墳造りを競争しているようにみえます。
それまでのどの王よりも、見た目に立派な古墳を造らないと新しい大王としての権威が保てなかったと考えることもできるのではないでしょうか。こういった政治の論理が経済性を無視した、とてつもない巨大な墳丘や大量の鉄製品の副葬という結果を生み出したのではないでしょうか。
この時代は、巨大古墳というモニュメントを必要とした政治制度であったために古墳時代と呼ばれるのです。それはのちに先進国、中国の政治制度をまねて導入した律令制と比較すると、制度としての未熟性と大王権力の不安定さを表していると解釈することができます。しかし、同時に巨大な古墳の姿は、原始社会から古代社会への力強い歩みの証明でもあるのです。

イラスト:出来上がったばかりの墓山古墳の想像図

『広報ふじいでら』第272号 1992年1月号より

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