末永博士と周庭帯(No.31)

更新日:2013年12月19日

周庭帯がはっきり写る城山古墳(1958年撮影)

Bさんを主役とした城山古墳発掘物語は、このあたりで一息入れることにします。
今回からは城山古墳をめぐる戦後の研究史をひも解いてみることにします。そのなかでいくつかの画期的な事柄を紹介していくことにします。
まず、末永雅雄博士による「周庭帯」の指摘を挙げなければなりません。末永博士は、まだ日本に戦後の余韻が覚めやらぬころから、考古学研究に航空機の利用を発案され、実行されたのです。今でこそ航空写真の利用は、考古学研究の常識となっているのですが、当時の学界では、空から古墳を見て何が分かるのかという、いささか冷ややかな雰囲気があったといいます。
末永博士が航空機の利用による古墳研究が極めて有効な方法であると確信を得られたのが、実は城山古墳の航空写真を検討されたころと推測されるのです。
それまでの古墳の領域としては、墳丘とそれを取り巻く濠までが意識されていたのです。ところが城山古墳の航空写真には、濠の外回りに幅90メートルにもおよぶ平坦地がぐるりとめぐることが写し出されていたのです。これは、付近の地形から見ても、決して自然にでき上ったものではなく、人為的な痕跡であることが読み取れたのです。そして城山古墳に付属する施設として造られたことが明らかにされたのです。
末永博士は、城山以外の古墳の航空写真にも検討を加え、畿内を中心とした大型古墳の多くに城山と同様の付属地が造られている事実を指摘されました。そしてこの付属地の存在が、大型古墳を特徴づける大切な要素であることを説いたのです。
この付属地について、「外堤」という呼び名が検討に上ったこともあったようです。しかし、末永博士は、低い平坦地が幅広くめぐるという事実を的確に表現する呼び名として、「周庭帯」と命名されたのです。
周庭帯の存在が明らかにされたことによって、古墳研究の新しい視野が開かれたのです。一例を紹介しておきましょう。大型前方後円墳の多くは陵墓(天皇家の墓)とされ、研究者の立ち入りすら制限されています。しかし、その境界線は、濠の外周に設けられているケースが大半であります。周庭帯は、陵墓の範囲から除外されているのです。
ということは、周庭帯の部分は本来陵墓の範囲にありながら、開発などによる破壊の危険性があると同時に発掘調査などの研究が行えるフィールドでもあるのです。

写真:周庭帯がはっきり写る城山古墳(1958年撮影)(末永雅雄『古墳の航空写真集』(学生社)1980年より)

『広報ふじいでら』第281号 1992年10月号より

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