土師の里遺跡の地形環境(No.132)

更新日:2013年12月19日

空から見た土師の里遺跡(北西から撮影、中央を横断するのは石川、左上は二上山)

今回から土師の里周辺の発掘調査についてみていくことにします。
土師の里遺跡というと、藤井寺の市民であれば、たいがい道明寺天満宮の周辺にあるなと見当がつくでしょう。しかし、地図をよく見ると、土師の里という地名は見つかりません。では、なぜ土師の里という名前が認知されるにいたったのでしょう。それを主に発掘調査の成果からひも解いてみようと思っています。
本論に入る前に、土師の里の地形についてふれておきましょう。土師の里遺跡は仲津山古墳(仲姫陵)付近を最高所として、道明寺南小学校にいたる東南方向の斜面地に展開しています。遺跡を南北にくし刺しするように通っている旧170号線では、近鉄土師ノ里駅前付近から南側へだらだら下って、西名阪自動車道の高架を越えたあたりで平坦になることが分かります。しかし、この斜面をよく観察すると、単純に下っていくのではなく、崖を伴った大きな階段状になっていることが分かります。最初の崖は、鶴松寺の南で見ることができ、その崖は東側へは天満宮の石段、西側へは三ツ塚の北側の方向へと続いています。もう一つの崖は道明寺南小学校の北西側の崖です。地理学では前者を中位段丘崖、後者を低位段丘崖と呼んでいます。
平坦面は高いほうから中位段丘面、低位段丘面、沖積段丘面といい、こうした地形環境を利用して人々の生活が営まれてきたのです。
土地利用にも時代による変遷があることが知られています。たとえば、ムラをつくった場所は、旧石器時代では中位段丘面ですが、縄紋・弥生時代になると低位段丘面に下り、古墳時代には低位段丘面に加えて沖積段丘面の一部も利用されるようになり、さらに飛鳥・奈良時代以降にはすべての段丘面に利用が拡大されるのです。
土師の里にこういった大きな広がりと時代幅をもった遺跡があるということが分かってきたのは、そう古い話ではないのです。昭和初期に石田茂作さんが古代土師寺の調査成果を紹介されてから、周辺に遺跡があることは予想されていたのですが、それが発掘調査で確かめられたのは、やっと昭和40年代後半になってからのことです。
土師の里遺跡の中心部が古くから住宅地だったこともあって、大規模な開発などがなかったことも調査の進展が遅くなった理由の一つです。主に個人の住宅の建て替えに伴って大阪府教育委員会が本格的に発掘調査を開始したのは、昭和50年代に入ってからのことです。修羅の発掘が昭和53年(1978年)のことですから、土師の里遺跡の発掘が開始されてから間なしの出来事だったことが分かります。
ここで、土師の里、土師氏とは切っても切れない説話にふれておきたいと思います。それは野見宿禰(のみのすくね)にまつわる三つの伝承です。野見宿禰は土師氏が祖とする人物ですが、彼の活躍記事が『日本書紀』と『播磨風土記(はりまふどき)』におさめられています。『日本書紀』には相撲の起源説話と埴輪創作伝承の二つ、『播磨風土記』には、宿禰の死とその墓作りの様子が収録されています。(つづく)

写真:空から見た土師の里遺跡(北西から撮影、中央を横断するのは石川、左上は二上山)

『広報ふじいでら』第382号 2001年3月号より

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