相撲の起源説話(No.133)

更新日:2017年07月08日

力士の埴輪(和歌山県井辺八幡山古墳:和歌山市教育委員会)

まず、相撲の起源説話の話からみていきましょう。
『日本書紀』の垂仁天皇7年の条に次のような記事があります。天皇の側近が「當麻(たいま)の村に當麻蹶速(くえはや)という勇者がいます。彼は常々自分に並ぶ強者と生死をかけた力比べをしてみたいもんだとまわりの者に言っています」と告げました。天皇が「蹶速に並ぶ者はいないのか」と問うと、一人の臣が「出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇者がいると聞いています。彼と対戦させてみてはいかがでしょう」と提案しました。早速、野見宿禰が招集され、當麻蹶速との対戦が実現しました。二人は向かいあって立ち、双方足を上げて攻撃しあいました。野見宿禰は當麻蹶速の肋骨を蹴り折り、ついに腰を踏み曲げて殺してしまいました。野見宿禰は當麻蹶速の領地を賜り、その地にとどまり仕えることになりました。
両者対戦は「捔力」と表現され、これが相撲の起源とされています。ですが、この対戦は今の相撲とはかなり様相が違います。足で蹴りあったということですから、キックボクシングのようであり、最後は腰を踏み曲げたということですから、プロレスの逆エビ固めのような技かと想像します。いずれにしてもルールなしの凄惨なデスマッチだったことは確かなようです。
この記事では二つの点に注目しておきたいと思います。一つは野見宿禰が強力無双の名声を得たこと、もう一つは當麻蹶速の領地をさずかり、天皇に仕えることになったことです。後者について少し詳しくみていきたいと思います。蹶速の領地當麻は、今の当麻町のあたりだったと考えられています。領地内には石棺(せっかん)材になる二上山凝灰岩(ぎょうかいがん)の産地が含まれていることに注意する必要があるでしょう。それはのちに天皇の葬儀を仕切ることになる土師氏の祖先、野見宿禰が石棺材の産地を確保したことは見逃せないからです。また、野見宿禰の「のみ」は石工の使う「鑿」に通じることもあながち付会ではないかもしれません。
ただ、出雲出身の野見宿禰が天皇に仕えることになったとする点は問題をはらんでいます。これは宿禰個人のことだけではなく、出雲国の大和政権への服属を表現していると読み取られるからです。京都府立大学名誉教授の門脇禎二さんによれば、出雲の大和への服属時期は、6世紀末をさかのぼることはないといいます。6世紀末といえば、古墳時代も終わり、聖徳太子が活躍したころです。
古墳造りの専門技術者集団として活躍する土師氏の祖先が、出雲出身者だとする点は歴史的な事実とは食い違いがみられるのです。
名声を得て当麻にとどまることになった野見宿禰は、次に埴輪創作の話に登場し、土師氏の祖先としての地位を獲得します。
では、『日本書紀』垂仁天皇32年の条をみていきましょう。 7月6日皇后日葉酢媛命(きさきひばすひめのみこと)が亡くなりました。天皇は群臣を集めて問いかけました。「殉死がよくないことは知っているので、この度の葬儀をどうしたらいいのだろうか」天皇が殉死をよくないと言ったのは、4年まえの母弟(いろど)倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀に、近くで仕えた人々を陵墓のまわりに生き埋めにした光景に心を悩ませていたからでした。(つづく)
写真:力士の埴輪(和歌山県井辺八幡山古墳:和歌山市教育委員会)

『広報ふじいでら』第383号 2001年4月号より

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