埴輪の起源説話(No.134)

更新日:2013年12月19日

特殊器台(左)特殊壺

垂仁(すいにん)天皇が心を悩ませた悲惨な光景とは、『日本書紀』によれば、次のような記載です。「倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀に際して、近習者を集め、陵墓のまわりに生きたまま、埋め立て並べた。数日しても彼らは死なず、昼夜悲しげに泣いた。ついに死んだ彼らを犬やカラスが食い荒らした。天皇は泣き叫ぶ声を聞いて、心締めつけられる思いがした」ということです。
そうした天皇の思いに応えて皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の仕方について、妙案をひねり出した人物がいたのです。それは當麻蹶速(くえはや)との相撲デスマッチに勝利して名声を博した野見宿禰(のみのすくね)だったのです。
宿禰は「陵墓に生きた人を埋め立てるのは良くない」と言い、出雲国へ使者を派遣し、土部(はじべ)100人を呼び寄せました。そして自ら土部を率いて埴(はにつち)をとり、人や馬などいろいろな形のものを作って献上し、この土物(はに)を生きた人に替えて陵墓に立てることを提案したのです。
天皇は野見宿禰の提案を大いに喜び、この土物を日葉酢媛命の陵墓に立てました。これを埴輪(はにわ)あるいは立物(たてもの)いい、今後陵墓には必ず土物を立て、人を傷つけないよう命じました。
天皇は野見宿禰の功績をほめて、鍛地(かたしところ)を与え、土部職(はじのつかさ)に任命し、本姓(もとのかばね)を改めて土部臣(はじのおみ)と称させました。土部連(はじのむらじ)が天皇の葬儀をつかさどるようになったのは、こうしたことが機縁となったものだ、したがって、野見宿禰が土部連などの始祖(はじめのおや)である。と説明します。
以上が埴輪の起源説話ですが、いくつかの問題点が指摘されます。一つは、前号でもふれた野見宿禰が出雲国出身だとする点です。繰り返しになるので詳しく述べませんが、出雲の大和王権への服属時期とはくい違いがみられるということです。
二つ目は、埴輪が人物や馬形などの形象埴輪から始まったとする点です。この点については岡山大学名誉教授の近藤義郎さんや国立歴史民俗博物館の春成秀爾さんの研究で弥生時代後期に岡山地方の墳丘墓に使われた特殊壷、特殊器台が古墳時代に朝顔形円筒埴輪、円筒埴輪に変化したのだということが明らかにされています。人物や馬形の埴輪は古墳時代の中ごろになってようやく登場するのです。
したがって、この2点からしても埴輪創作の説話が史実とくい違っていることが知られるのです。では、なぜ、史実と異なる土師氏の祖先伝承が奈良時代の正史『日本書紀』に掲載されるようになったのかを考える必要があります。
野見宿禰は「黄泉国(よもつくに)」出雲の出身で埴輪を考案し、石棺材の産地を領地にもつとされています。おそらく土師氏は天皇家の葬送儀礼を自分たちが仕事としていることに、野見宿禰という英雄的な人物を祖先として創作することで、その正当性を主張したのではないかと考えられるのです。さらに重要なことは、そうした説話が正史に掲載されたということは、国家が天皇家の葬送儀礼を土師氏の独占的な仕事として認めたことを意味することです。
また、文中の「鍛地(かたしところ)」については、文字どおり金属器の生産工房を指すという解釈がありますが、陶器(埴輪)生産の場所だという説もあります。後者とすれば、「鍛地」はまさに土師の里遺跡そのものだということになります。(つづく)

写真:特殊器台(左)特殊壺(岡山県中山遺跡:真庭市教育委員会)

『広報ふじいでら』第384号 2001年5月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当)
ファックス番号:072-938-6881
〒583-0024
大阪府藤井寺市藤井寺3丁目1番20号
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-952-7854 (世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-7806
メールフォームでのお問い合せはこちら

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。