『播磨国風土記』土師弩美宿禰(No.135)

更新日:2013年12月19日

復元された葺石(五色塚古墳)

次に『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の記事についてみてみましょう。風土記は713年、諸国に発せられた官命で編さんされました。地域のことを記録した書物で今の藤井寺市史とか大阪府史のさきがけとなるものです。『播磨国風土記』は、奈良時代に編さんされた代表的な風土記の一つです。
この『播磨国風土記』の揖保郡立野(いぼぐんたちの)の項に野見宿禰(のみのすくね)が登場します。ただし、「土師弩美宿禰」と表記されていますが、弩はノの仮名だとすると、野見宿禰を指すとみて間違いはないでしょう。
立野は現在の兵庫県龍野市龍野町付近と考えられます。龍野といえば、醤油と三木露風の「赤とんぼ」を思い浮かべるかたも多いでしょう。その立野の地名所以を説明するくだりに野見宿禰が登場します。では『播磨国風土記』をみていきましょう。
「立野(たちの)と名付けた所以は、昔、土師弩美宿禰(はにしのみのすくね)が出雲に帰る途中、(注意1)部野(くさかべの)に宿泊したが、病気になって死んでしまった。そのときに出雲の人がやってきて、たくさんの人が立ち連ねて川の小石を運び、墓の山を作った。これに因んで立野と名づける。またその墓屋(はかや)を出雲の墓屋と名づけた」
大和から出雲への道の一つに、山陽道の姫路付近から分岐して龍野を経由して美作に入り、出雲にいたるルートが知られています。この道を利用して、野見宿禰かどうかは別にして、出雲の人が往来したことは十分考えられることです。
石をリレー式に運んで墓を築いたとなると、箸墓(はしはか)の伝承と同じで、古墳の葺石が連想されます。しかし、普通、古墳はその人物の支配地に造ることからすると、この記事を素直に史実とみることをためらわせます。ただ、逆の見方をすると、特異な出来事であったために風土記におさめられたとすることもできます。
いずれにしても、葺石を施した古墳はこの地域の人々にとって、目新しい情景に映じたのでしょう。それをもたらせたのが野見宿禰だと説明するところに興味をひかれます。
なお、龍野市西方の山地中腹にある宿禰塚(すくねづか)が野見宿禰の墓だと伝わっています。しかし、宿禰塚古墳は5世紀後半に造られた直径40メートルの円墳で、揖保川流域に勢力をはった豪族の墓であろうと推定される古墳で、築造時期の面からいっても伝承に史実は求められないでしょう。
ただ、龍野から東へ約30キロメートルの加古川右岸は、大王の棺と呼ばれる長持形石棺の石材となった竜山石の産地です。したがって、土師氏の族長クラスの人物が播磨に足しげくかよったことは容易に想像されるところです。
『日本書紀』『播磨国風土記』の野見宿禰にまつわる伝承をみてきました。そこからは古墳の築造に関する内容が注意されます。一つ目は石棺材との関係(当麻と播磨)、二つ目は埴輪起源伝承、三つ目は葺石の伝承です。いずれも古墳を構成する主要な要素であることはいうまでもありません。
おそらく土師氏は、石棺、埴輪、葺石をつなぐ人物を創作し、彼を「黄泉国(よもつくに)」出雲の出身者とすることで、天皇の葬送儀礼を担当する正当性を主張する根拠としたのではないかと考えています。
正史である『日本書紀』に土師氏の祖先伝承が掲載された経緯を考えると、天皇の葬送儀礼を土師氏が独占することを公認されていたという事情が背景にあったことは確かでしょう。(つづく) 注意1:はかんむりが日、つくりが下
写真:復元された葺石(五色塚古墳)

『広報ふじいでら』第385号 2001年6月号より

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