見つかった土師の里ムラ(No.136)

更新日:2013年12月19日

土師の里遺跡の竪穴式住居群

前置きがすっかり長くなってしまいましたが、土師の里遺跡の発掘調査に話を戻します。
昭和49年(1974年)に三ツ塚古墳北側の段丘崖(だんきゅうがい)に埴輪窯が築かれていたことが発掘調査で確かめられました。土師の里一帯は、単に古墳地帯というだけではなく、古墳の築造センターのような役割をもっていたことが知られたのです。しかし、この段階では、まだ彼らの住居跡などは見つかっていなかったのです。
大阪府教育委員会の泉本知秀さんを中心とする技師たちは、あちこちの水道管やガス管の埋設工事や住宅建設工事の現場に出向きました。もちろん掘り上げられた土に土器や石器が含まれていないか、土層面に遺跡の存在を示す変化が現れていないか、ということを調べるためです。
建設現場では嫌がられることもありましたが、地道な調査が積み上げられました。
その結果、仲津山古墳の南東側の中位・低位段丘面一帯の広範囲に遺跡が広がっていることが予測できるようになりました。土師の里遺跡のおぼろげな輪郭が姿を現したのです。昭和52年(1977年)、旧170号沿いで、三ツ塚古墳の東側を南へ少し下った場所で、マンション建設に先立つ発掘調査が実施されることになりました。この調査では合計10棟の竪穴住居跡が見つかるという大きな成果が得られました。埴輪窯の操業と同時代のムラの一角が確認されたのです。
住居跡は、一辺4~5メートルの方形プランの竪穴住居で、中には、埴輪を使ったつくり付けの竃(かまど)を備えたものもありました。住居の内外からは埴輪がたくさん出土し、住人が埴輪生産と深い結びつきをもっていたことをうかがわせました。住居跡は、3度以上建て替えがあったことを示しており、それは出土した土器から、5世紀後半から6世紀前半の5~60年間のできごとだったことが知られました。この調査区の近辺では、のちの調査でも同じような時期の竪穴住居跡が見つかっていて、埴輪生産に直接たずさわった人々のムラがここにあったことが確実になってきたのです。
しかし、ここで注意しておかなければならないことは、見つかった住居跡はいずれも小規模な竪穴住居だということです。土師氏は有力な豪族でしたから、そのリーダーの住居は居館(きょかん)と呼ぶような大規模なものだったと考えられます。残念ながらこれまでの発掘調査では、その痕跡をとらえることができていません。小規模な発掘調査は、土師の里遺跡のあちこちでかなりの密度で行われています。そこで見つからないとすれば、広大な未調査地に目が向きます。道明寺天満宮の境内に土師氏の居館が営まれたのではないかと、今は予測しているのです。当たるか、否かは将来の楽しみにしておきましょう。
まあ、それはともかく、この住居跡の発掘によって、土師の里遺跡は正式に遺跡として認知されたといっても過言ではありません。以降、住宅の建て替えをはじめとするいろいろな土木工事に先立って発掘調査が実施され、土師の里遺跡の情報がどんどん集まってきました。
その一つは、土師の里遺跡における最初の人類の足跡は、旧石器時代にさかのぼること。二つ目は縄紋・弥生時代にも全期間でないにしてもムラが営まれたこと。三つ目は、古墳時代にムラの規模は大きくなり、古墳造りのムラとして役割を果たしたこと。四つ目は、古墳時代以降もムラは継続し、土師寺を建立するなど隆盛を誇り、中世を経て現代まで続くということ。などであります。
次回からは、土師の里遺跡を特徴づける発掘調査の成果について紹介していきたいと思います。(つづく)

写真:土師の里遺跡の竪穴式住居群(大阪府教育委員会)

『広報ふじいでら』第386号 2001年7月号より

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