土師の里のあけぼの(No.137)

更新日:2013年12月19日

有舌尖頭器と有舌尖頭器を装着した復元投槍

土師の里遺跡の歴史をさかのぼっていくと、どこまでいくのでしょうか。まだはっきりとはしないのですが、国府遺跡やはざみ山遺跡、青山遺跡で住居跡などが見つかってる後期旧石器時代に行き着く可能性があります。
それは、この時代を特徴づける石器、翼状剥片(よくじょうはくへん)や国府型ナイフ形石器が遺跡の各所から見つかっていることから想像されるのです。いずれ、石器の集中する箇所(住居の痕跡)の発掘があるだろうと期待されるのです。
また、旧石器時代の末期から縄紋時代の初頭にかけて流行する有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)という大型の石鏃のような石器も見つかっています。有舌尖頭器は投げ槍の先端に付けられた石器で、シカやイノシシといった中型の獣の猟に威力を発揮したと考えられます。
このような石器が見つかるということは、土師の里遺跡のエリアは、旧石器時代を通じてキャンプサイトとして利用されていたのかもしれません。
旧石器時代に続く縄紋時代にも土師の里遺跡は人類が住み着いたことが知られています。ただし、縄紋時代草創期から中期までの間は、はっきりした遺物や遺構が見つかっていないので、無人の荒野だったのかもしれません。
その後、縄紋時代の後期になると、再び土師の里遺跡に人類が現れます。縄紋後期は、まだ少量の土器が見つかっているぐらいで、はっきりしないのですが、次の晩期になると、お墓や住居跡が発掘されていて、ムラが営まれたことが確認できます。
縄紋晩期のムラは、土師の里遺跡の南東部、低位段丘上にありました。発掘された住居跡は2棟で、全体が掘り出された1号住居跡は、4.2×5.7メートルの隅丸方形プランの竪穴住居でした。この時代としては標準的なものです。この住居跡が見つかった地点から南へ20メートルほどの場所では同じ時代のお墓が数基発掘されています。これらには、深鉢形土器を使った土器棺墓と素掘りの土壙墓がありました。前者は乳幼児用、後者は成人用かと考えられます。
住居跡やお墓がどれくらいの広がりをもち、どのような変遷をたどったかは、まだはっきりしません。しかし、住居とお墓が近接して営まれた土師の里縄紋ムラの存在が明らかになったことは大きな意義があります。縄紋晩期には、近在の国府遺跡や船橋遺跡にもムラがあったことが知られています。これらのムラと土師の里遺跡のムラがどのような関係にあったのでしょうか。三つのムラが共存したのでしょうか。それとも一つの集団が移動した結果、三つの遺跡が残されたんでしょうか。謎解きは始まったばかりです。
縄紋時代に続く弥生時代にも土師の里ムラが営まれていました。住居跡は、前号で紹介した古墳時代の住居跡のすぐ東側で見つかりました。直径は5メートルほどの円形プランの竪穴住居で中央に炉がきられ、弥生時代後期に建てられたものでした。弥生時代のムラが縄紋晩期から連綿と続いてきたのか、断絶を伴っていたのか、までは分かっていません。これも今後の重要な調査課題の一つです。
旧石器時代から弥生時代の土師の里遺跡を見てきました。まだまだ、分からないことが多いのですが、多少の断絶期間をはさみながらも、各時代にムラがつくられてきたことを確かめることができました。それは土師の里遺跡が居住空間として優れた立地条件を備えていたことの証でもあるのでしょう。(つづく)

写真:有舌尖頭器と有舌尖頭器を装着した復元投槍

『広報ふじいでら』第387号 2001年8月号より

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