土師の里は古墳築造センター(No.138)

更新日:2013年12月19日

古墳時代の土師の里周辺想像図

土師の里ムラの歴史のなかで、ひときわ光彩を放った時期があります。その一つは、古墳時代であり、いま一つは土師寺が建立されたときです。
古墳時代のムラは、古市古墳群の築造開始と軌を一にして成立するようです。土師の里遺跡の東南部の比較的低い地域にムラが営まれたことが確認されています。発掘されたのは、一辺5メートル程の方形プランの竪穴住居で、この時代の標準的なものです。ムラの広がりははっきりしないのですが、そうたくさんの建物が建っていたとは考えられません。おそらく数棟でムラが構成されていたのではないでしょうか。
この段階では、古墳造りのムラとしてのはっきりした特色を見いだすことはできません。
5世紀の中ごろになると、土師の里遺跡のほぼ中心部で竪穴住居跡がたくさん見つかっています。これらの住居跡の内部や周辺からたくさんの埴輪や柔らかい石でナイフや鏡などの器物をかたどって作られたまつりの小道具(滑石製模造品)が見つかっていて、このムラの住人が古墳造りに深くかかわっていたことをうかがわせます。
ただ、これらの住居跡はおしなべて一辺5メートル内外の標準的な建物ですので、土師氏のリーダーの住居や古墳造りに動員された数多くの作業員の住居などはまだ見つかっていないのです。今後の大きな調査課題といえるでしょう。
さて、ここで話を土師氏の仕事に移します。土師氏の仕事といえば、野見宿禰が考案したとされる埴輪作りがすぐ頭に浮かんできます。事実、仲津山古墳の南側から道明寺天満宮の石段にかけての斜面には埴輪を焼いた窯(かま)が見つかっています。窯は朝鮮半島から伝わった硬質の土器須恵(すえ)器を焼く窯をまねたもので、斜面に煙突を倒したような登り窯形式でした。これまで発掘で確認されているのは11基ですが、未調査地にはこれに倍する窯が眠っていると推測されています。ここで焼かれた埴輪は、誉田御廟山古墳や市野山古墳などに供給されました。
ただし、登り窯形式を採用するのは5世紀中ごろ以降ですので、それまでに造られた仲津山古墳や城山古墳には野焼きで作られた埴輪が使われていました。野焼きの跡はまだ見つかっていないのですが、供給する古墳の近辺にあったのではないかと想像しています。 埴輪の生産方式が野焼きから登り窯に転換したのは、超巨大古墳誉田御廟山古墳の築造を控えて、はやり言葉でいえば古墳造りの構造改革の一環だったように思います。墳丘長200メートルの古墳と400メートルの古墳を比べると、長さは2倍ですが、体積は8倍、表面積は4倍にもなるのです。古墳造りのシステムをより効率的なものに作り替えて対処しようとしたのでしょうか。
埴輪作りの分野では、大きさを規格化し、登り窯を導入して、燃料効率をあげ、大量生産に対処しました。
また、登り窯導入時期は、形象埴輪にも大きな変化がみられます。それは、人物形埴輪や動物形埴輪が新しい種類として加わることです。墳頂や造出しに作られた形象埴輪群像は役者が増えて、より物語性が豊かなものになりました。ことによると、野見宿禰の埴輪創作説話は、この時点の変化を指しているのかもしれません。
埴輪生産における変革は埴輪という資料から復元できるのですが、他の分野では具体的な資料に乏しく、その実態をつかむことがなかなか困難です。しかし、そうした古墳造りの大きな変革もまた、土師氏が主導したことは疑いがないのです。(つづく)

イラスト:古墳時代の土師の里周辺想像図
『広報ふじいでら』第388号 2001年9月号より

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