土師寺の調査(No.139)

更新日:2013年12月19日

土師寺塔心礎と礎石群(右)、出土した高句麗系軒丸瓦(左)

土師氏は巨大古墳造りを担当することで豪族としての力を蓄えました。
ところが、6世紀後半になると、巨大古墳の築造は下火になり、土師氏の仕事が大幅に減ってしまったのです。伝統的な土師器の生産や陵墓の管理だけでは、豪族としての地位を保つことはできません。土師氏は一族存亡の危機を迎えたのです。
巨大古墳築造に替わる大きな仕事が簡単にあるはずもありません。土師氏の選択した道は、多くの豪族と同じように中央官庁に多くの人材を送り込むことでした。事実、文献史料からも外交や軍事の分野で、土師氏の一族が活躍したことが確認されています。
土師氏は官人を多く輩出することで、一族の危機を乗り切ったようです。その証が土師寺の建立なのです。
7世紀後半、地方豪族は競って寺院を建立します。その数は全国で700箇所にも達するのです。全国の豪族が急に仏教という新来の宗教に目覚めたとも考えられません。むしろ、寺院というこれまでになかったきらびやかで荘厳な空間を造り上げることで、自らの力を誇示する道具立てに使ったことが考えられるのです。
寺院の建築、仏像の造立、仏教祭事の主催など、どれも在地で蓄積したノウハウでは対処の難しいものばかりです。寺院の建立とその運営には、中央政府の有形無形の支援がないと成り立たないのです。見方を換えると、古代寺院の建立は、中央政府から地元で抜きん出た豪族としてお墨付きをもらった証拠になるのです。全国の豪族が競って寺院を建立した背景には、そういった政治的な目的があったのではと考えています。
土師氏もこの流れに沿って寺院を建立しています。土師寺です。道明寺天満宮の石段から南へ80メートルほどいった道路の右側に大きな石が数個置かれているのをご存じでしょうか。五重塔の礎石群です。最も大きい石には直径90センチ、深さ15センチほどの円形の穴が彫り込まれています。穴のまわり幅10センチほどが平らにつくられ、直径1メートルを超える太い柱を受けていたことが知られます。この石は、五重塔の心柱を受けたところから特に心礎(しんそ)と呼ばれています。元は参道の中央付近にあったのですが、西側の参道脇に移動されたようです。
土師寺は昭和11年(1936年)、石田茂作さんが著した『飛鳥時代寺院址の研究』の「土師寺」という項目で紹介され、学界周知の遺跡になりました。しかし、寺院の範囲がすでに住宅地となっていたこともあって、その後新しい知見もなく経過しました。
ところが、昭和52年(1977年)以降、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会の発掘調査が実施されるようになり、いくつかの新しい事実が明らかになってきました。その一つは「土寺」と墨書きされた土器が見つかったことです。場所は藤井寺市民病院の北西で、土師寺の推定寺域内にあります。この寺が志紀郡土師郷にあって、土師氏の氏寺であろうと従来からいわれていたのですが、それが実物によって確認されたのです。
二つ目は、土師寺の創建時期に関することです。寺院の創建時期は建物の軒先を飾る丸瓦、平瓦の紋様によって判断します。軒瓦の紋様は土器や円筒埴輪と同じように年代を測る尺度にも使われるのです。道明寺会館の事前発掘調査で出土した大量の瓦から、それまで知られていた軒丸瓦以外に高句麗様式の非常に古い軒丸瓦が見つかったのです。
この瓦の出土によって土師寺は、7世紀前半には一部の建築がすでに始まっていた可能性がでてきたのです。ただ、この型式の軒瓦は少量しか使われなかったと思われますので、土師寺の堂塔が完成したのは7世紀後半になってからだったと考えられるのです。(つづく)

写真:土師寺塔心礎と礎石群(右)、出土した高句麗系軒丸瓦(左)

『広報ふじいでら』第389号 2001年10月号より

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