円筒棺と土饅頭(No.141)

更新日:2013年12月19日

林遺跡で見つかった土饅頭(右)と内部に納められた円筒棺(左)

その発掘調査は、平成7年(1995年)、道明寺小学校の北側、市野山古墳(允恭陵)の西側で行われました。マンション建設に先立つ発掘調査でした。
この場所は戦後まもなくまでは墳丘をとどめていた赤子塚という古墳があった場所だということが知られていました。
発掘調査では、予想したとおり、墳丘はなくなっているものの赤子塚の輪郭がはっきり出てきました。赤子塚は直径34メートルの円墳で、南側に造出しをもっていました。そこに使われていた埴輪や土器も出土して、この古墳が5世紀後半に造られたことも分かりました。調査は図面や写真をとり、最後のつめとして、若干残っていた墳丘盛土の断ち割りにかかったのです。
古墳の盛土をはがし、古墳築造前の表土層を追いかけていくと、不自然な盛り上がりと溝状のへこみに気が付いたのです。溝状のへこみは、一辺5メートルほどの隅丸方形を描き、それにかこまれた部分が盛り上がっていたのです。溝状のへこみは深さ20センチほどで、盛り上がりは溝底から50センチほどありました。その盛り上がりの真下に円筒棺が納められていたのです。まさに土饅頭をもった円筒棺が見つかったのです。
この土饅頭は、円筒棺の地上標識の役目をもっていたのですが、その上を古墳の墳丘盛り土が覆ったので土饅頭が保存されることになったのです。小さな土饅頭ですから何百年も地表に姿をとどめることは難しいはずですから、このケースは貴重な例といえるでしょう。
円筒棺とその標識の土饅頭については、少し因縁話があるのでご紹介しておきます。平成3年(1991年)のことでした。土師の里遺跡で私どもと大阪府教育委員会が隣り合せで発掘調査をする機会がありました。両方の調査区で合計19基もの円筒棺が見つかり、共同で現地説明会も開催しました。
大阪府側の担当は松村隆文技師でした。彼は気さくな人柄で、しかも一流の考古学のセンスを備えた人でしたが、天命時をかさず、先年若くして黄泉(よみ)の国に旅立たれました。
両方の調査員は調査区を行き来して議論をしていました。その中で最も白熱したのが円筒棺を据える墓穴、墓壙(ぼこう)についてでした。円筒棺の発掘では、最初に埴輪の集積が見つかり、発掘を進めていくうちに円筒棺の全容が明らかになり、最後に墓壙の輪郭を見つけるという経過をたどることが多いのです。ですからこの場合、掘り終わった段階では、墓壙の肩から円筒棺が浮き上がっているのです。深い墓壙を掘ってその底に円筒棺を据えるのであれば、最初に墓壙の輪郭が見つかるはずなのです。
議論は二つに分かれました。私たちは墓壙の輪郭を見落としているんだと主張しました。これに対して松村技師は、墓壙は浅くて円筒棺を固定する程度のもので、その上に土饅頭を造って仕上げるのだと主張したのです。
その時の議論では、松村技師の主張する土饅頭の痕跡が見当たらないことと、わたしどもの調査区では墓壙の輪郭から掘り出した円筒棺墓があったこともあって、わたしたちが優勢勝ちをおさめました。
しかし、松村技師の意見も魅力的でした。平成6年に開設したアイセル シュラ ホール歴史展示室の土師の里遺跡の鳥瞰復元図にはこっそり土饅頭を描き込みました。
円筒棺と土饅頭については、それ以来ずっと気になっていました。韓国旅行で釜山市郊外の山麓で民墓を見たときも、円筒棺の土饅頭と姿がダブりました。
赤子塚古墳の下層で、円筒棺をもつ土饅頭を見つけたことを、すでに病床にあった松村技師に報告すると、彼は人懐っこい笑顔で「よかった、よかった」と言ってくれました。

写真:林遺跡で見つかった土饅頭(右)と内部に納められた円筒棺(左)

『広報ふじいでら』第391号 2001年12月号より

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