埋没古墳の発掘 (No.144)

更新日:2013年12月19日

鞍塚古墳の発掘

土師の里遺跡の特に西側では、たくさんの埋没古墳が見つかっています。埋没古墳とは聞きなれない言葉だと思いますので、少し説明をしておきます。古墳は長い年月のうちに、何らかの理由で本来もっていた墳丘を失うにいたったものがあります。墳丘を失うにいたった契機はさまざまで、小規模な古墳では、自然の流土で平地に帰ってしまったこともあったでしょうが、最も多いのは宅地や田畑にするための墳丘の破壊です。その時期も古く奈良時代にさかのぼるものから戦後までと幅広い時期にまたがっています。規模の大きな古墳や、墳丘を失った時期が新しいものでは、小字に○○塚という地名が残っていたり、地割に古墳の輪郭がたどれるものがあります。一方、小規模で墳丘を古く失った古墳では、地上からその存在を示す手がかりのまったくないものが多いのです。
ところが、墳丘を失った古墳でも、まわりにめぐらされた濠(ほり)は埋って残るケースが多いのです。発掘調査で濠は最初溝状の落ち込みとして見つかります。その溝が円弧を描いたり、直角に折れ曲がっていたりすると、古墳の濠ではないかと疑うことになります。次に溝の中を掘り進めて、葺石(ふきいし)の用材の川原石や埴輪片がたくさん出てくると、古墳の濠だった可能性が非常に高まるのです。 こうして見つかった埋没古墳は、古市古墳群内で50基以上にのぼります。ここ20年ほどの発掘調査によって、古市古墳群の構成古墳数が倍増し、その実態の解明に大きな前進が見られたのです。 土師の里遺跡内でもこれまでに10基の埋没古墳が見つかっています。その中には土師の里8号墳のように古墳のほぼ全体が発掘され、埋葬施設まで残っていた例から、土師の里4号墳のように葺石と埴輪の存在を確認しただけというものまで含まれています。また土師の里5号墳は、昭和62年度の発掘調査で古墳の存在を確認したのですが、その時には古墳の形や大きさをつかむことはできませんでしたが、14年後の隣接地の発掘調査で、この古墳が一辺18メートルの方墳だったことがようやく分かったようなケースもあります。小規模な調査でもその成果を丹念につなぎあわせていった成果なのです。
さらに、こういう事例もあります。鞍塚古墳は戦後間もなく、大阪府営道明寺住宅の建設によって墳丘を失った古墳ですが、墳丘の破壊に先立って緊急の発掘調査が行われました。調査では墳頂部に営まれた埋葬施設が見つかり、名前の由来となった鞍を含む馬具やさまざまな副葬品が出土しました。しかし、この調査では墳丘の調査はほとんど実施できなかったので、当時残っていた墳丘から直径39メートルの円墳だとされてきました。
ところが、木造平屋の住宅を近年鉄筋コンクリートの中高層住宅に建て替えることになり、大阪府教育委員会が改めて鞍塚古墳の跡地を発掘調査することになったのです。調査の結果、鞍塚古墳は、円墳ではなく、墳丘長48.5メートルの前方部が短い帆立貝(ほたてがい)形の前方後円墳だったことが分かったのです。しかも墳丘を囲む濠の輪郭が卵形を描くという特異な形をしていることも知られたのです。
このように土師の里遺跡の発掘調査では新たな古墳をリストに追加したり、これまでのデータを大きく修正するような成果がえられています。これらを総じてみると、土師の里遺跡ではさまざまな形と大きさの古墳が古市古墳群内でも特に集中して営まれたことが知られます。それは、この遺跡が土師氏の本拠地であったことと切り離して考えられない事象だと思うのです。(つづく)

写真:鞍塚古墳の発掘(大阪府教育委員会)

『広報ふじいでら』第394号 2002年3月号より

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