倭の五王の比定2(No.159)

更新日:2020年05月06日

 明治維新の高揚した雰囲気がまだ残る1878年(明治11年)雑誌『洋々社談』の第38号に今なお、不朽の業績と評される論文が掲載されました。那珂通世(なかみちよ)さんの「上古年代考」でした。

 那珂さんは『日本書紀』の神功・応神紀に記された百済王が亡くなった年と朝鮮の『東国通鑑』(1485年)のそれとを比較すると、そのほとんどが『書紀』の年代を干支二運(120年)引き下げると、一致することを見つけたのです。たとえば、神功紀55年(255年)に肖古王が亡くなったことが記されていますが、東国通艦では近肖古王が亡くなったのは375年とされているのです。亡くなった年の干支は同じ乙亥(いつがい)なのです。

 「雄略紀」以降では、両文献の年代記録はほぼ一致しますので、これによって、応神天皇から安康天皇にいたる『日本書紀』の年代を補正することが可能になったと発表したのです。

 五王の研究を行った松下見林さんや新井白石さんも『日本書紀』の雄略紀以前の年代がインフレになっていることは気がついていたのですが、具体的な補正方法は示しえなかったのです。

 那珂さんは、この論文では直接五王問題には触れてはいないのですが、10年後の1888年(明治21年)に「日本上古年代考」を『文』の第1巻8・9号に発表し、自らの年代論をベースとして五王の比定を試みています。

 その結論は、讚=履中天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇とするものでした。結果は松下さんや新井さんと同じなのですが、斬新な年代論を基礎にしていただけに学界に大きな反響を呼んだのです。

 星野恒(ひさし)さんは、『古事記』干支を重視する立場から那珂さんに反論します。早速、那珂さんも星野さんの意見を一部取り入れ、讚を履中天皇から仁徳天皇へと修正すると発表します(「日本上古年代考余論」『文』20・21号1888年)。讚=仁徳天皇説が初登場したのです。

 星野さんとともに『古事記』干支を重視する年代論の旗頭でもあった菅政友(かんまさとも)さんは、1892年(明治25年)「漢籍倭人考」を『史学雑誌』に発表します。菅さんは五王と関連する仁徳から雄略天皇にいたる在位年を次のように推定しました。仁徳天皇(395年~427年)、履中天皇(428年~432年)、反正天皇(433年~437年)、允恭天皇(438年~454年)、安康天皇・雄略天皇(455年~489年)。この年代と『宋書』の倭王関係記事との照合から五王比定を試みます。

 讚、珍、済、武の四王については、それぞれ仁徳、反正、允恭、雄略の各天皇が該当するとします。ここまでは那珂説と同じです。ところが、興については問題が生じました。済とした允恭天皇は454年に亡くなったとするのですが、後を継いだ興の最初の朝貢は『宋書』によれば、462年で済の没年が前年にあるとすれば461年になるのです。ここに7年の誤差が生じたのです。

 この誤差を菅さんは、興にのみ冠された世子という文字をヒントに解消を試みます。つまり、世子とは日嗣(ひつぎ)の皇子を意味し、履中天皇の第一皇子の市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を指すと考えたのです。允恭天皇系に皇位継承が傾くなか、履中天皇系の市辺押磐皇子が自らの皇位継承権の正当性をことさらに強調した表現が世子だと解釈したのです。したがって、菅説によれば、安康天皇が455年~461年、市辺押磐皇子が462年~477年、雄略天皇が478年~489年に在位し、462年に世子興と名のって宋に遣使したのは市辺押磐皇子だということになるのです。(つづく)

2003.6

岡ミサンザイ古墳

倭王武の墳墓を目される岡ミサンザイ(仲哀天皇陵)古墳 (藤井寺市)

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